TARI TARI 1話のメモ:画面、会話
新アニメ、いくつか見ていますがトップレベルに面白いので、特徴的な2つの要素(画面、会話)について簡単に書こうと思います。
画面
画面ってたぶん一般的な言葉じゃないんだけど、いい言葉が見つからないのでとりあえずこれでいきます。
なにが言いたいのかっていうと、例えば登校の場面なんかがそう。歩きの来夏を自転車の田中が追い抜いて、自動車のウィーンが初めに着く。あるいは、「1人バド」という器用な部活に取り組む田中が壁打ちに失敗して、飛んでいったシャトルをカメラが追いかけると、声楽部が朝練していたりする。
ぱっと見でおかしいのは、転入生のウィーンがどうして朝練の時間に登校しているのか、という点と、厳しい教頭が田中を追い出しそうなものなのに、バド部が同じ空間で練習するのを許している、という点。
そういう疑問点がいくらかある中で、じゃあどうしてそういう「画面づくり」をしたのかと考えると、おそらくキャラクターを取り巻く環境を描くためだと思う。
環境っていうのは、つまりここでは学校のことで、キャラクター全体を取り巻くものです。大袈裟に世界観って言ってもいい。
会話
で、話は少し変わって会話、セリフについて。画面の話とは後ほど統合します。
これもずいぶんと説明を省いていることに気付くはず。上で書いたように本来ならば説明役を立てて学校の説明とか、あるいは和奏が普通科に移った理由をはっきりと述べさせる(むしろ、和奏が「移った」とは1話では誰も言っていない)ところなんだけど、それを徹底的に排除する。
特に、このアニメではウィーンっていう転入生がいるわけで、それならシナリオ上なんら無理なく先生に学校の説明をさせることができようものです。
でも、それをしない。あくまで特別な会話はさせずに、例えば和奏が父親の朝食の準備をしたりとか、そういうところで和奏の家の事情を匂わせるに留める。
で、この理由は何かって考えると、たぶん日常的に言わないことは言わせないためでしょうよ。
まとめて
で、キャラクターがどういう背景でどういう場に存在し(環境)、どういう生活をしているのか(日常的な会話)を追及した画面と会話、というふうに一言でまとめてみました。
効果としては、「その世界が作られた世界である感じ」の排除=リアリティみたいなところが期待できるのかなあ。その辺はあんまり検証していないので何とも言えないですが。
ただ、おそらく視聴者をゲスト扱いしないための工夫なんだろうな、とは思う。視聴者に没入してもらってこその物語で、物語に引きずり込む強力な要素*1を配置しづらい学園、日常系の話では、こういう工夫が最近ちらほら見られる。
例えば、同じくP.A.のオリジナル『花咲くいろは』*2や『けいおん!』シリーズでもされてきたことだと思う。
余録
そう言えば、会話って言えば初めの和奏と父のやりとりに、和奏の人間性、父親との関係が表れていて、まあその時点で『TARI TARI』は今期トップレベルなのです。
以下関連ツイート。
TARI TARIは、例えば和奏と父の関係性について、わずか十数秒のやりとりの中にそれを匂わせているのがうまい。朝食を作るも昨日父親が作りすぎた残りをベースにしていて、で、学校に行くから洗い物は父にさせて、花を持っていこうとすると「忙しそうだったから植えた」と言われて怒る。
— むかいあまのりさん (@mukaiamanori) 7月 2, 2012
つまり、和奏は娘としてよく働く、どちらかと言うと「しっかりした子」なんだけど、いろんな所で父親の働きと関係している(依存している)。「学校に持っていくと言った」のに父に植えられてしまった花はその関係性を確かに表現しているし、それに対して怒るのもまた、彼女の確かな幼さを表している。
— むかいあまのりさん (@mukaiamanori) 7月 2, 2012