「エロが下等なものだと思われているのは悔しい」
作家橋本紡とその周辺で巻き起こったラノベ・文芸論議のTogetterがすごく面白い。
橋本紡「ライトノベルが読みやすいと思われているのは悔しい」「月に十冊も表紙にパンツが出てる文庫はおかしい」
via http://togetter.com/li/330995
はてブでTwitterに流したりもしたんだけど、ラノベに興味のある人は、少し長いけど一読して欲しい。
で、「なんてタイトルの記事だ」と思われるかもしれませんが、まあ、半分本気の半分冗談です。真面目に書いたら、ほら、今は法律的なところに話が進んでしまう恐れがあって、嫌なので。
ただ、一言二言書いておくと、僕がエロ描写好きなのって、結局はそこに人間がいるからなんですよ。だって、性抜きに人間なんて描けないわけで、さらに言えば、そういうコンテンツに興味を持っている自分すら興味の対象になる。
で、そんなことを思いながら読んでいたら、橋本紡が面白いことをつぶやいている。
読者がなにを見てるかといえば「自分」なんですね。伴侶でもなく。子供でもなく。ひたすら自分に耽溺していく。
— 橋本紡さん (@tsumugu_h) 7月 2, 2012
ライトノベルに限った話ではないですが、たとえばエッセイを読んでも、僕よりちょっと上の世代の作家さんは「他人」を描いてます。一方、僕よりちょっと下の作家さんは「他人から見た自分」を描いている。これはもはや、パラダイムシフトです。
— 橋本紡さん (@tsumugu_h) 7月 2, 2012
まさにこれ!
なにせ他人が発信するコンテンツが膨大になりすぎた今、もはや他人は興味の対象ではない。特にギーク根性でなにかを極めたいと考えている連中にとっては、多くの人を広く浅く理解するなんてことに興味はない。それならば、自然と「自分」「自分」「自分」にのめり込む。他人はあくまで自分との比較対象になる。
Twitterもそうだけど、ソーシャルメディアそのものが「他人が見た自分」を見るための装置だと僕は思っていて、だから、そうこう言う橋本紡だって、かなり自分に興味がある(はず)。
いや、もちろん分かっているんですよ。僕の言っていることはTogetterの流れとは全く論点がずれているし、橋本紡はエロ(彼がリビドーと表現するもの)に対してそれなりの理解を示している。僕も、パンツまみれの文庫が児童書の隣にあるのは、BL本がりぼんやマーガレットと同じ棚に陳列されるくらい危険なことだとも思っていて、エロいのはこっそり読めばいいと思う。で、僕の言う「性」は「自分」のものでなく、「二人」のもの、あるいは「人間」のものであるという考え方も理解できる。
でもさ、僕みたいに自分に興味があって、なおかつそれに自覚的な人間はエロいコンテンツに対して積極的であり、文芸とライトノベルにそれぞれ個性があって優劣の関係にないという橋本紡の主張と同じく、エロコンテンツと文芸、ライトノベルあるいは純文学に優劣を付けるつもりがないというのもまた事実なわけです。
だから、自分にしか興味がない、リビドーを隠そうともしない読者と、それを食い物にするラノベレーベル全体を含んだエロラノベ業界がいかにも下等なものだと認識されるのは悔しい。