『TARI TARI』を見終わって:浮いた感じから世界に羽ばたいてしまった人々

10月になりましたが、まだまだ日中の日差しは暑く、秋の到来と言うには少し早いのではないかと感じられる今日この頃。要するに何が言いたいのかというと、秋アニメが始まりはしましたが、夏アニメの話をします。『TARI TARI』です。

ネット界隈ではFlashなんていう懐かしいものも流行して、なんとなく普通じゃないブームを巻き起こしてくれた『TARI TARI』、皆さんはもう十分に罵られましたでしょうか。僕は和奏ちゃんに罵られるのが一番好きです。

と、前置きはこのあたりにして、さっそく本題へ。ただ、いろいろ書きたいことはあるけれど、なんだか散文ちっくになっていますのでご注意下さい。

『TARI TARI』の初見の印象は「ずいぶん浮いたキャラクターたちだな」ということでした。個性的な、とか、特別な、とか、そういう言葉では表現するには飛び抜けていない普通の学生であり、しかし単に主人公たちだからという理由だけで際立っているわけでもない、「浮いた」キャラクターでした。

教室にいて一人だけ制服の異なる和奏、逆に、声楽部にいて一人だけ制服の異なる来夏。服装で言うと紗羽の私服はちょっと普通じゃないし、部活で言うと田中は一人バドミントン。ウィーンに至っては名前からして少しおかしい。

全員、非常識というわけでは全然ないんだけど、そこにいると少しだけ目立つ、そんな「浮いた」存在でした。

で、このキャラクターたちの行動は、彼女らの結束と共に少しずつ特異なものに変わっていくのです。

二人きりの合唱、地元イベントでの意味不明な衣装、地元商店街でのヒーローショー。

端から見ていると少し恥ずかしい(言葉を換えると「イタい」)ようなことを次々とやり遂げました。ただ、彼らの行動が、誰かの生活とか人生を大きく変えてしまうことは、決してなかった。誰かが少し笑顔になったり、幸せを感じたりする程度。彼女らはただの高校生であり、普通の人であったから、そこまでの影響力は決して行使しません。

それが、単独での学園祭という猛烈に特別な行動に踏み切ったとき、多くの人々を巻き込みます。断言します。彼女たちの行動によって、校長の人生は変わりました。これが善いことか悪いことか、その判断はここでは保留として、彼女たちの浮力に、とうとう他の人たちが引っ張り上げられたのです。

続いて彼女たち自身が飛び立ちます。進路です。和奏は音楽の勉強、田中はバド推薦、紗羽に至っては騎手になるために留学です。もともと来夏の呼びかけで集まったちょっと浮いた人々の集まりは、最終的に盛大に羽ばたいていきました。

学校から、地元から、日本から。

正直なところ、この結末には少し戸惑っています。彼女らの決断が多くの大人によって支えられたものであり、また、校長の老後と引き替えに得られた学園祭の上に成り立つものだからです。*1

思い出してみて下さい、理不尽に紗羽の夢に反対していた親父の、一転して騎手の学校に「坊主なめんな!」電話を入れたときのよりいっそう理不尽な怒り。僕は頼もしさと可笑しさと同時に、薄ら寒さを感じました。これこそが子どもに引っ張られてはた迷惑なことをしでかす大人の図といったところ。思い返すたび、正直「笑えんぞ、これ」となります。

要するに彼女らはやはりまだ子どもで、多くの大人と関わりながら生きている。

ただ、エピローグ的に語られた、その少し先の話は、かなりポジティブに受け入れていい内容だったと思います。特に和奏。

1話と同じように花を持って出かけた和奏の行く先は母の墓。お母さんが死んでしまってから一緒に曲を作って約束を果たした和奏の、墓参りというお母さんとの関わり合いからは、母と子の対等性が伺えます。

和奏の台所姿は失われた母親を象徴する姿でしたが、そこに父親が立っているシーンが描かれました(これ自体は物語中盤にもあった)。ここにも、親子の良好な関係が見て取れます。つまり、頼ったり頼られたり、です。

だから結局は、ちょっと浮いているだけの個人では何もすることができないけど、持ちつ持たれつで飛んでいける。ベタだけどそういうことを丁寧に描いたアニメだったのかなと思っています。

*1:校長校長うるせーよと思われるかもしれませんが、僕としてはあの人のいいことだけが取り柄の校長が不憫でなりません。