『言の葉の庭』感想:感情/感覚、主人公/ヒロイン、新海誠

先月末に新海誠監督作品『言の葉の庭』が封切りとなりました。初日に観賞したんだけど、その後ばたばたとしてしまったので今更だけど気付いたことを簡単に書き留めておきます。

新海作品は大好きで、だいたいのタイトルは複数回見ている(はず)です。その中でずっと思っていたのが、スクリーンの内と外(登場人物と鑑賞者)で共有しにくい曖昧な感情(切ないとか苦しいとか、かなり感性に依存する感情)を表現するときに、万人に共通の感覚的な表現を添えているということ。端的に言うと、「感情表現」を「感覚表現」として画にしている。

例えば『秒速5センチメートル』。ある女の子に会いたい一心で電車を乗り継ぎ乗り継ぎ、でも天候のトラブルで電車が止まってしまって……という、そういう場面。不安とか焦りとか心細さとか、色々あるんだけど、それを寒い車内という「シチュエーション」あるいは寒いという「皮膚感覚」を添えることで上手く伝えています。

例えば『雲の向こう、約束の場所』。大きな決断に際し、拳銃なんて物騒なものが登場し、腕を負傷します。決断に関する心の痛みを誰でも共有できる身体的な痛みに乗せて表現しています。

例えば『星を追う子ども』。序盤終盤を問わず、物語が大きく動くところでは、やはりキャラクター各々が物質的な傷を負います。

今回の『言の葉の庭』でも、その方法はしっかり踏襲されています。タカオは、ユキノに踏み込むためのいわば儀式として、ユキノを傷つけた学生につっかかり、返り討ちでボコボコにされる。ユキノは、去ろうとするタカオを追いかけ、裸足で駆け、階段で転ぶ。

こういう誰でも分かる「痛み」が鑑賞者をぐっとスクリーンの内側に引き込む力を持っている。――ということは、まあ基本的なことなので騒ぎ立てるようなことでもないんだけど、今回の『言の葉の庭』では、この「感覚表現」がシナリオレベルで効果的に機能していたということを書いておきたい、というのが本エントリの趣旨。なのでここまで前フリ。

また新海作品全般の話をだけど、新海作品では主人公/ヒロイン間のやりとり(あるいはやりとりのなさ)がよく描かれます。例を挙げるのは、くどくなるので止めとこ。

で、『言の葉の庭』なんだけど、ここでも描かれる。強烈に描かれる。

雨の日の午前は学校に行かず公園で靴のスケッチをするタカオ。するとそこで毎回会えるお姉さんのユキノ。で、お互いにその時間をすごく大切にしている。同じ場を共有し(ユキノはタカオのためにベンチを空ける)、同じ時間を共有している(雨の日の午前)。

でも、その共有は実は嘘で、本当は一方通行。

ユキノはタカオのことを知っている。彼が自分の勤め先の学校の生徒であること。彼が靴の職人を目指していること。

でも、タカオはユキノのことを知らない。彼女が自分の学校の先生であること。彼女が雨の日だけでなく毎日公園に来ていること。極めつけは、弁当の味が分からないこと。

食い違い、すれ違い、すなわち、やりとりのなさ。

この辺が新海作品の醍醐味なんだけど、この「味覚がない」というのが、二人の関係を見事に象徴している。つまり、ただ同じ場所にいるだけで、なにも共有なんてできていない。

で、梅雨明けとか云々はすっ飛ばしてラストの話になるんだけど、終盤の痛みの表現について。

そういう、お互いに大切に思ってるんだけど踏み込めず踏み込ませられずで、会える会えないすら天候任せな二人が、ようやくちゃんと気持ちを共有するという段階に至ったときに、二人とも体にケガをする。痛みを共有する。

すれ違いを味覚で表現し、一転、共有を痛みで表現する。キャラクターと鑑賞者をつなぐ表現手法が、ここではキャラクターとキャラクターがつながったことを表現するための手法としても機能している。見事でした。