大絶賛・まどマギ新編「叛逆の物語」(というか「ほむら」)

ちょっと遅いけど見てきた。そしたらすっごい良かったので勢いがあるうちに勢いでブログ書く。明日も見に行くので、冷静なエントリはまた後日ポストされるかもね。久しぶりのエントリがこんな大変なことになってしまったのは、少し申し訳ないと思っている。

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TVシリーズを踏襲した上で真っ向から話を作るなら、確かにこうなる。だって、TVシリーズの結末はまどかの慈愛とほむらの情愛の決定的なズレを露呈させただけだった。ほむら視点で言えば「希望が叶わなかった」あるいは「奇跡が起きなかった」結末であり、どう考えてもバッドエンド。にもかかわらず赤いリボンを頭に巻いたほむらは、まどかが概念と化した世界を戦い抜こうとかいう決意をするという、ちゃんちゃら可笑しい結末だった。

ほむらの願いは「まどかとの出会いをやり直すこと」で、より直接的には「守られるのでなく、私が守る」関係になること。対等の立場で魔女に立ち向かいたいとか、そんな生易しいものじゃない。「まどかはなにもしない。私が全部やる」が彼女の願い。

そういう意味において、ほむらの願いは一切叶えられていなかった。円環の理として概念化したまどかはもはや守るとか守らないとかの範疇から外れてしまった*1ほむらにとっては恒久的な絶望が決定されてしまった。

TVシリーズでは、まどかのシンボルである赤いリボンで頭を、すなわち「慈愛の心」で「理性的に」欲求をコントロールすることで、概念化したまどかを受け入れた。このときに誕生したのが白ほむら。

でもね、希望と絶望は差し引きゼロだって、赤い目をしたネコみたいなのが言ってた。

白ほむらが戦うほど、「守られるのでなく、私が守る」という欲求を持ったほむらが大きく育つ。エグい言い方をすると、何が何でも「私のまどか」を獲得しようとするほむら(=黒ほむら)が、ソウルジェムをどろどろのびちゃびちゃにする。

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新編の序盤は魔女化した白ほむらの内側の世界。ひとことで言うと普遍的な友情の世界。「みんな」で仲良くナイトメアとかいうものをいじめ倒す*2

白ほむらの結界の中では、魔法少女はダンスして変身するし、歌って敵を殲滅する。たぶん楽しさの演出だけじゃない。白ほむらが「恒久的な絶望」を受け入れたことに起因する必然だと思う。

歌と踊りはどんな社会でも発祥した人間の本質に依る普遍的な文化の代表例だ。

ほむらが刹那的なまどかとの関係性を望んでいたのに対して、まどかの出した答えは普遍的な隣人愛(=慈愛)。だから、それを受け入れるために生まれた白ほむら人格は魔法少女と普遍性を無意識的に結びつけた。魔法少女とかいう刹那的な存在を人間の文化と結びつけた。

つまり、白ほむらは心の底から概念化したまどかを尊重していて、魔女化してもなお、魔法少女のことを守ろうとした。

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でも、そんな生ぬるい考えがほむらの本心であるわけがない。

ほむらが、まどかと直接コンタクトできる唯一の機会である「反転の瞬間」を無為にするはずがない。

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本来のほむらの望みは「私のまどか」の獲得。それは、愛は愛でも、まどかの慈愛でなく、ほむらの情愛。みんなの和(円)でなく、他のものがどうなっても構わないというエゴな炎。

ほむらの本質は、円環の理がもたらした慈愛の世界をぶち壊してでも自らの愛を実行する精神にある。黒ほむらにはまどかを尊重するなんて気持ちはない。だって「私のまどか」が欲しいんだから。

まどかが過去と未来の全ての魔法少女の普遍的な希望になり、その結果、ほむらがそれと同等の恒久的な絶望へと落ち、さらに、世界の新しい理に叛逆する。

なんという大間違いの連続! 刹那性の崩壊! さらに普遍性の崩壊!

そういう意味では、やっぱりまどマギの本質は百合なんだよなって痛感する。

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だから黒ほむらが覚醒してからはワクワクしてたまらなかった。別に黒ほむらのエゴが実って欲しいとか、そういうのじゃない。TVシリーズでは一切希望が叶えられなくて不憫ではあった*3けど、まあ、もともと性格があんななのが悪いというのが常識的なコメントかと思う。

でも、誰であれ、そいつがそいつらしくないというのは、見ていて釈然としない。

だからラスト、黒ほむらの怒濤の叛逆はものすごいカタルシスで、とにかくワクワクした。「世界とかどうなってもいいからブチかませ!」ってなった。ものすごくほむらがほむららしくしていた。

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ほむららしいって何だ?

最後、まるで守る側と守られる側が入れ替わったようなまどかの転入イベント。ほむらはTVの1話と同じように、世界を愛せるかとまどかに尋ねる。まどかは答える。まどからしい回答。すなわち、世界中に普く向けられる慈愛。

ほむらはそんなまどかだから、まどかを「私のまどか」にしたかった。「まどかだけを守る」自分が欲しかった。ほむらはこのギャップをちゃんと認識していて、だから、自分とまどかの関係が恒久的に続くなんてことはあり得ないと知っている。敵になるだろうと口に出して明言する。

「叛逆の物語」は、ほむらの刹那性が概念化したまどかの普遍性を破壊し、勝利する物語だ。

でも、ほむらの希望が叶えられることはない。ほむらだけを見るまどかなんてものは、もはやまどかではないから。これがほむらの根本的な絶望。

慈愛の神様と根本的に絶望を抱えた悪魔の刹那的な友人関係は、またはじめからやり直し。

少女達はいつまでたっても永遠に少女であり続けている。しかもそれを仕掛けているのが、普遍的な関係性を否定しているほむら自身である。ほむらの本質は「矛盾」なんだよなって、つくづく思う。面白い。

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とりとめのない文はこれでおわり。ここから、他に気になったところをとりとめもなく列挙。

  • 「叛逆の物語」っていう副題が素晴らしい。まどかの普遍的な慈愛を裏切って、自分勝手にまどかを求めるという行為はまさしく「叛逆」だ。
  • ほむらの「内側の世界」たる魔女の結界が、表のほむらの外向きの理性を反映していたのが面白い。黒ほむらの業の深さを象徴している。
  • 「食べる」行為で欲望を表すというのはTVシリーズからの通りだった。さらには、ほむらがものを食べるシーンが存在しないことで、ほむらの表出されない欲望を表現するのも、一貫されていた。ただ、最後の最後、スタッフロールのときに左右にまどかとほむらが並んで出てきてたとき、まどか側に口のシンボルがあって、逆じゃね? ってなった。どういう意図だろうか。ちなみにほむら側は目だった。
  • そう言えば、まどかの概念化を否定するために時間を戻すというのはできなかったんだろうか。

*1:ちなみに、たぶんまどかが円環の理になることを「犠牲」と表現しているのはほむらだけ、のような気がする。

*2:なんかもう、あの悪趣味なぶちのめし方にもほむらの性格が出てて非常に素晴らしい。

*3:マミはまどかという友人を得、さやかと杏子は死によって普遍的な友情を獲得したのに対し、ほむらだけが何も得ていない。ほむらが得たのは恒久的絶望と、それを理性的に押さえつけるためのリボンだけ。