こんな夜は煩悩寺でも読むといいよ

煽り記事です。さーせん。

1年に1度の特別な夜には特別なマンガを読みましょう。恋愛マイスター秋枝が贈る珠玉のイチャラブストーリー、それが『煩悩寺』。

煩悩寺 1 (MFコミックス フラッパーシリーズ)

煩悩寺 1 (MFコミックス フラッパーシリーズ)

  • 作者:秋★枝
  • 発売日: 2010/08/23
  • メディア: コミック

今年の夏にKindle版も出版されているのでそちらもご紹介。そろそろ本屋も閉まっちゃう時間ですしね。

とにかく読者をニヤニヤさせる能力がピカイチ。普段は悶絶して床をゴロゴロ転がりながら読むことのできるマンガなのですが、それをこんな特別な夜に読むとどんな気分になるのか、個人的にすごく気になるので今からやってきます。一人でやるのも寂しいのでどなたか一緒に爆発しましょう。


おもしろ半分でこんな記事を投稿しているのですが、こんな夜じゃなくても全然オススメなので、年末年始の妙にぽっかり空いてしまう時間用に購入されるのも良いかと思います。


秋枝でいうと、『恋愛視覚化現象』と『伊藤さん』もオススメ。女の子がちょーかわいい。

恋愛視角化現象 上 (ヤングジャンプコミックス)

恋愛視角化現象 上 (ヤングジャンプコミックス)

  • 作者:秋★枝
  • 発売日: 2012/09/19
  • メディア: コミック

大絶賛・まどマギ新編「叛逆の物語」(というか「ほむら」)

ちょっと遅いけど見てきた。そしたらすっごい良かったので勢いがあるうちに勢いでブログ書く。明日も見に行くので、冷静なエントリはまた後日ポストされるかもね。久しぶりのエントリがこんな大変なことになってしまったのは、少し申し訳ないと思っている。

***

TVシリーズを踏襲した上で真っ向から話を作るなら、確かにこうなる。だって、TVシリーズの結末はまどかの慈愛とほむらの情愛の決定的なズレを露呈させただけだった。ほむら視点で言えば「希望が叶わなかった」あるいは「奇跡が起きなかった」結末であり、どう考えてもバッドエンド。にもかかわらず赤いリボンを頭に巻いたほむらは、まどかが概念と化した世界を戦い抜こうとかいう決意をするという、ちゃんちゃら可笑しい結末だった。

ほむらの願いは「まどかとの出会いをやり直すこと」で、より直接的には「守られるのでなく、私が守る」関係になること。対等の立場で魔女に立ち向かいたいとか、そんな生易しいものじゃない。「まどかはなにもしない。私が全部やる」が彼女の願い。

そういう意味において、ほむらの願いは一切叶えられていなかった。円環の理として概念化したまどかはもはや守るとか守らないとかの範疇から外れてしまった*1ほむらにとっては恒久的な絶望が決定されてしまった。

TVシリーズでは、まどかのシンボルである赤いリボンで頭を、すなわち「慈愛の心」で「理性的に」欲求をコントロールすることで、概念化したまどかを受け入れた。このときに誕生したのが白ほむら。

でもね、希望と絶望は差し引きゼロだって、赤い目をしたネコみたいなのが言ってた。

白ほむらが戦うほど、「守られるのでなく、私が守る」という欲求を持ったほむらが大きく育つ。エグい言い方をすると、何が何でも「私のまどか」を獲得しようとするほむら(=黒ほむら)が、ソウルジェムをどろどろのびちゃびちゃにする。

 *

新編の序盤は魔女化した白ほむらの内側の世界。ひとことで言うと普遍的な友情の世界。「みんな」で仲良くナイトメアとかいうものをいじめ倒す*2

白ほむらの結界の中では、魔法少女はダンスして変身するし、歌って敵を殲滅する。たぶん楽しさの演出だけじゃない。白ほむらが「恒久的な絶望」を受け入れたことに起因する必然だと思う。

歌と踊りはどんな社会でも発祥した人間の本質に依る普遍的な文化の代表例だ。

ほむらが刹那的なまどかとの関係性を望んでいたのに対して、まどかの出した答えは普遍的な隣人愛(=慈愛)。だから、それを受け入れるために生まれた白ほむら人格は魔法少女と普遍性を無意識的に結びつけた。魔法少女とかいう刹那的な存在を人間の文化と結びつけた。

つまり、白ほむらは心の底から概念化したまどかを尊重していて、魔女化してもなお、魔法少女のことを守ろうとした。

 *

でも、そんな生ぬるい考えがほむらの本心であるわけがない。

ほむらが、まどかと直接コンタクトできる唯一の機会である「反転の瞬間」を無為にするはずがない。

 *

本来のほむらの望みは「私のまどか」の獲得。それは、愛は愛でも、まどかの慈愛でなく、ほむらの情愛。みんなの和(円)でなく、他のものがどうなっても構わないというエゴな炎。

ほむらの本質は、円環の理がもたらした慈愛の世界をぶち壊してでも自らの愛を実行する精神にある。黒ほむらにはまどかを尊重するなんて気持ちはない。だって「私のまどか」が欲しいんだから。

まどかが過去と未来の全ての魔法少女の普遍的な希望になり、その結果、ほむらがそれと同等の恒久的な絶望へと落ち、さらに、世界の新しい理に叛逆する。

なんという大間違いの連続! 刹那性の崩壊! さらに普遍性の崩壊!

そういう意味では、やっぱりまどマギの本質は百合なんだよなって痛感する。

 *

だから黒ほむらが覚醒してからはワクワクしてたまらなかった。別に黒ほむらのエゴが実って欲しいとか、そういうのじゃない。TVシリーズでは一切希望が叶えられなくて不憫ではあった*3けど、まあ、もともと性格があんななのが悪いというのが常識的なコメントかと思う。

でも、誰であれ、そいつがそいつらしくないというのは、見ていて釈然としない。

だからラスト、黒ほむらの怒濤の叛逆はものすごいカタルシスで、とにかくワクワクした。「世界とかどうなってもいいからブチかませ!」ってなった。ものすごくほむらがほむららしくしていた。

 *

ほむららしいって何だ?

最後、まるで守る側と守られる側が入れ替わったようなまどかの転入イベント。ほむらはTVの1話と同じように、世界を愛せるかとまどかに尋ねる。まどかは答える。まどからしい回答。すなわち、世界中に普く向けられる慈愛。

ほむらはそんなまどかだから、まどかを「私のまどか」にしたかった。「まどかだけを守る」自分が欲しかった。ほむらはこのギャップをちゃんと認識していて、だから、自分とまどかの関係が恒久的に続くなんてことはあり得ないと知っている。敵になるだろうと口に出して明言する。

「叛逆の物語」は、ほむらの刹那性が概念化したまどかの普遍性を破壊し、勝利する物語だ。

でも、ほむらの希望が叶えられることはない。ほむらだけを見るまどかなんてものは、もはやまどかではないから。これがほむらの根本的な絶望。

慈愛の神様と根本的に絶望を抱えた悪魔の刹那的な友人関係は、またはじめからやり直し。

少女達はいつまでたっても永遠に少女であり続けている。しかもそれを仕掛けているのが、普遍的な関係性を否定しているほむら自身である。ほむらの本質は「矛盾」なんだよなって、つくづく思う。面白い。

***

とりとめのない文はこれでおわり。ここから、他に気になったところをとりとめもなく列挙。

  • 「叛逆の物語」っていう副題が素晴らしい。まどかの普遍的な慈愛を裏切って、自分勝手にまどかを求めるという行為はまさしく「叛逆」だ。
  • ほむらの「内側の世界」たる魔女の結界が、表のほむらの外向きの理性を反映していたのが面白い。黒ほむらの業の深さを象徴している。
  • 「食べる」行為で欲望を表すというのはTVシリーズからの通りだった。さらには、ほむらがものを食べるシーンが存在しないことで、ほむらの表出されない欲望を表現するのも、一貫されていた。ただ、最後の最後、スタッフロールのときに左右にまどかとほむらが並んで出てきてたとき、まどか側に口のシンボルがあって、逆じゃね? ってなった。どういう意図だろうか。ちなみにほむら側は目だった。
  • そう言えば、まどかの概念化を否定するために時間を戻すというのはできなかったんだろうか。

*1:ちなみに、たぶんまどかが円環の理になることを「犠牲」と表現しているのはほむらだけ、のような気がする。

*2:なんかもう、あの悪趣味なぶちのめし方にもほむらの性格が出てて非常に素晴らしい。

*3:マミはまどかという友人を得、さやかと杏子は死によって普遍的な友情を獲得したのに対し、ほむらだけが何も得ていない。ほむらが得たのは恒久的絶望と、それを理性的に押さえつけるためのリボンだけ。

ツイッターで長文連投する人

大好きです。どんどんやって下さい。

最近の話ではなく、少し前から「(続き)とか140字オーバーの長文をツイッターに投稿するやつなんなの? 死ぬの?」的な意見はちらほら見られる(とは言え、そこまで嫌われているわけでもなさそうだけど)のに対し、「この人のツイート、内容はディープだし、繋げると1000文字くらいいくんじゃない!? カッコイイ!!」的な意見は全く見ないのです。

だから言おう。

平日の明け方5時とか、さすがの一般アニオタも寝静まった頃に、ブルンブルンとエンジンを吹かせ、140字マックスのツイートをこれでもかと言わんばかりにTLに浴びせてくる人、大好きです! もっとやって下さい!!

いわゆるブログとツイッターの住み分けみたいな話だと思います。「主張したいことがたくさんあるならブログにまとめて書いてくれよ」という話。で、僕としてもその意見は理解できる。

それでもやっぱりブログ持ちにも関わらず長文連投する人はいるわけで、ということはその人にとってツイッターにポストするメリットが当然存在しているはず。一般的によく言われているのは心理的な負荷を軽減できるという点でしょうか。

「これただのつぶやきだから~ 発言に責任とかないから~」みたいな、半分逃げ半分ディフェンスという素晴らしいスタンス。

でも、これって投稿者側の負荷だけじゃなく、閲覧者側の負荷も下げてるんじゃないですか。

その一連の長文連投ツイートを読んでもいいし読まなくてもいい。いくつか単語を拾い上げて読んだ気になってもいい。ひたすら受動的に、スマホで画面をスクロールするだけで、読んでいるような読んでいないような曖昧な存在になれる。

ブログ記事となると、例えばRSSに登録していたり、それこそツイッターのTLに流れてきたのを拾ってみたり、いずれにせよ何らかの操作によってブログ記事を開くことが必要で、どこか多少なりともアクティブにならざるを得ないと感じています。

そのアクティブ要素が原因で、僕の場合、ブログはちゃんと読まないといけない(理解しないといけない)ような気がしてしまって、それができないならサッパリ読まないほうがいいと思ったりする。つまり、0/1の存在であって、ツイッターのTLを眺めているときのような確率的で曖昧な存在ではないのです。

だから、僕はツイッターを眺めているほうが楽だし、そういう適当な状態でなら、ちょっとなに言ってんのか分かんないようなツイートだって「ちょっとなに言ってんのか分かんないなー」って言いながら何となく情報を摂取することができる。すっごい楽。

これは閲覧に関する心理的負荷を軽減しているっていうことだと思います。だから、長文連投には閲覧者側にもメリット*1が存在していて、そういう観点で僕は長文連投する人が大好きです。

***

余談だけど、これ、僕が大沖のマンガ好きなのに似てる。

*1:もちろんこれは裏返すとデメリット

百合姫の『私の世界を構成する塵のような何か。』が文学だ

もう初版からずいぶん経っていますが、基本的には面白いマンガの蔵出し企画みたいなものだと思って下さい。あと、これも紹介記事的なスタンスなのでネタバレが含まれるような感想はありません。

すんごい胸が苦しくなる。心が芯の芯から切なくなる。

百合ってそういうものだと思う。百合の本質は「間違うこと」にあると、僕は思っている。その意味では、この妙に覚えにくい名前のマンガ家が書いた妙に長ったらしい名前のマンガは、至高の百合マンガだと思う。

物語の構成員は7人の大学生女子。

感情にもろくてなんでも表情に出てしまうのに自分の気持ちには気付かない女の子。

律儀でまじめですごく弱くて幸せになる才能がない女の子。

気に入った子はすぐにベッドにエスコートするビッチだけど面倒見のいい女の子。

自分の性欲を嫌悪する女の子。

したいことをなんでもするアホで奔放な女の子。

お金持ちのお嬢様で変人だけど言ってることはすごく正しい女の子。

なんでも面倒くさがるくせに人の温かさには触れていたい面倒くさい女の子。

この子たちが、本気で誰かを大切に思って、考えて考えて、好きな人の幸せとか願って行動して、あるいは何もできなくて、それでどんどん間違っていく話。

で、こういうのを描くのはすごく難しい。ある程度確立されたキャラがあって、それを組み合わせてシチュが作れて、それを何となく連続させて物語のできあがりという大量生産のラインからは一線を画した百合マンガで、そういう意味で「文学」だと思う。

で、こういう話を描けるのは、セリフ回しの質が高いから。

上で4番目に書いた子が、ある理由があって自分を卑下しなくちゃいけなくなったときに「あたしは弱くてずるくてエロくて頭がおかしいの」って言うんだけど、こういうの本当に天才だと思う。弱い、ずるい、エロいは残念ながら読者も認めざるを得ない客観的事実なんだけど、頭がおかしいはこの子の主観。自分自身を見失ってしまったという事実がありのままに表現されている一言。理性的に自分を分析した言葉と、自分のことが理解できなくて感情的に口走ってしまった言葉が、1つの吹き出しの中でせめぎ合う。

セリフ1つにそういうところを詰め込めるセンスがあって、そのせいで本当にびっくりするくらい胸がきゅうきゅう苦しくなる。

オススメです。

アフタヌーンの『亜人』が面白い

先日第2巻が発売になったgood!アフタヌーンの『亜人』が面白いので紹介します。講談社マンガ嫌いの僕が言うから間違いない。本当に面白いです。

あと、紹介なのでネタバレ的なものは最小限したつもり。

亜人(1) (アフタヌーンKC)

亜人(1) (アフタヌーンKC)

  • 作者:桜井 画門
  • 発売日: 2013/03/07
  • メディア: コミック
亜人(2) (アフタヌーンKC)

亜人(2) (アフタヌーンKC)

  • 作者:桜井 画門
  • 発売日: 2013/06/07
  • メディア: コミック

ずばり「亜人」と呼ばれる人の中に紛れ込んだバケモノがこの話の中核を成す。

亜人について知られていることはただ一つ、死なないということ。どこから生まれてくるとか、どんな特徴があるとか、普通の人とどう違うのかとか、全然知られていない。

そしてこの死なないということに関しても、よくある不死身とは違って、普通にケガをする。だから、ある人間が亜人であるかどうか、死んでみなければ分からない。

これがすごく面白い。

主人公はトラックにはねられて自分が亜人だと知る。蘇るところを衆目にさらされる。亜人は捕らえられ、非人道的な人体実験を「死ぬまで」受け続ける。なぜなら亜人は人でないから、らしい。

それから主人公と、変わり者の友人の二人の逃避行が始まるわけだけど、このマンガの面白いところは、主人公が極めて人間的な感性を持っていること、だんだん亜人的な思考を行うようになること、それから、周囲の人間があまりに亜人に無関心であること。

例えば、誰一人として「自分も亜人かもしれない」なんてことは考えもしない。自分が亜人でないことを証明する方法はないのに、それでも亜人を他人事として、テレビの中のこととして消化できる。「へえー、国内三人目の亜人か」くらいの話。

ストーリーの転がし方もうまい。亜人に関して人々が何を考えて何を喋り、どう行動するのか(行動しないのか)にフォーカスしている。そこにフォーカスした上で、テンポ良く話が動く。ずっと緊張感が続いていてぐいぐい引き込まれる。面白い。2巻でもスピードは落ちない。