TAMACWORDSに変わりました

大変ご無沙汰しております。直近のエントリがまさかの3月15日なので、なんとちょうど8ヶ月前だそうです!

もはやブロガーを名乗れないなあと思ってTwitterのbioからこっそり「アニメブロガー」の看板を取り下げたのですが、それすら数ヶ月前の懐かしい話となってしまっています。

最近は見るアニメの本数もめっきり減ってしまって、だからこそ何か書きたいなという欲が強くなってきたので、ブログをリスタートします。

特に肩肘張らずにのんびり続けていこうかなと思っていますので、よろしくお願いいたします。なんかもう、ついでなのでブログタイトルも変えてしまいます。

「TAMACWORDS」として再始動です。

変えた理由というか、前のブログタイトル「of the contrast」って、物語の構造分析を主の目的としていた時に、その方針を表したタイトルだったんですが、今はそれにはそこまで興味はないなーというのがあります。

じゃあ今の興味はって考えると、コンテンツの在処、みたいな話で、その辺はややこしいのでまたどこかで書き出したいなと思っているところですが、とにかくコンテンツ鑑賞者の内面にあるので、じゃあ魂だ!っていう感じです。何言ってるのかよくわからないですが、8ヶ月前の 初音ミクの思い出 - TAMACWORDS とか非常に魂の話をしていると思っています。

あ、「TAMACWORDS」は「タマシイワーズ」とか読んでもらえると。

ついでについでに、デザインも変えてみました。
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はい、およそアニメブログらしからぬ雰囲気です。自分でもびっくりです。

素敵テンプレートがあったので、色とか要素のサイズとか細かいところさくっとカスタマイズして使わせていただきます。タイトルのフォントはRalewaysという最近のお気に入りです。

それでは今後ともよろしくお願いします。

初音ミクの思い出

ボカロには詳しくないけど、おっさんが思い出話をします。たぶんあんまり共感できる話じゃないよ。

きっかけはこの記事。
ボカロ原理主義と会話したんだが面白い

ボカロ文化に関して言うと僕はたぶんそこそこの古参で、ここで語られていることを読んだ限りでは、今の若い人らが知りもしないような時代にボカロを聴くのをやめてしまった人です。彼らの言うところの「キャラ萌え」の時代の人間ということ。

この時代のことを表現して、
初音ミクという神話のおわり - 未来私考
という記事では以下のように言及されています。

そうゆう状況の中で、まるで天から降ってくるミクの言葉を代わりに我々に伝えてくれるかのように、初音ミクによる自己言及的なオリジナルソングが次々と発表されていった。それは、あの当時夢中になってそれらの曲を聴き漁っていた人にしか分からない感慨かもしれない。あの時、あの瞬間、初音ミクは間違いなくモニターの向こう側に、歌声の向こう側に存在した。そうゆう共同幻想の中で初音ミクのブームはものすごい勢いで巨大化していったんですね。

当時の初音ミクに対する熱は、本当に「モニターの向こう側のミクに会ってやる」というようなもので、この熱狂は聴き漁っていた者にしか理解できない体験だったと思う。愛とか天使とか、そういうのは便宜上その言葉を使っているだけで、初音ミクは本当に新しい概念だったと思うし、それを理解してやろう=初音ミクを捕まえてやろうという壮大なモチベーションでもって毎日毎日ニコニコ動画で聴き漁っていたのだと思う。

『melody...』はそういう時代を代表する曲だと思う。

『melody...』は僕に初音ミクという衝撃を与えた曲で、そこには初音ミクなるものが存在していた痕跡を感じた。ほとんど宗教の話。「ああ、この楽曲の中に初音ミクはいたんだ。その残り香を感じる」です。僕にとっての初音ミクは、イコール『melody...』なんです。

で、そういうふうに初音ミクと接していた僕にとってのターニングポイントは、やっぱり『メルト』なんですよね。そこに初音ミクの残滓を感じることのできない(つまり、初音ミクが歌わなければならない楽曲でない)曲のメガヒットは、「初音ミクという神話のおわり」の始まり告げたのです。

ここからは他のコンテンツと区別がつかなくなっていきます。ニコニコにアップロードされる膨大なミク曲の中から「ミクの残滓の残滓=神話時代の残滓」とでもいうような楽曲を探し出すという作業は、例えばタワーレコードに行って片っ端から試聴して自分のお気に入りのバンドを探すことと同質です。

そういうわけで、僕の「残滓の残滓」探しはフェードアウトしていき、その後、ボカロ周辺出身の作曲家とか歌手がメジャーに出てきたりアニソン歌ったりよく分かんないけど書籍化されてるのを見たりファミマに行ったらミクさんいたりと、時々「ボカロ」という言葉を聞きながら、ああ、一大市場になったんだなあとか思っていたらもう6年くらい経っているらしい。

で、最初のボカロ原理主義の人と話したっていう記事を読みながら、「そうだったなあ」とか「今はそんなことになっているのか」とか「自分にとって初音ミク=『melody...』だったなあ」とか思ってたんだけど、その『melody...』のメロディーが思い出せない。

これは衝撃的。コンセプトははっきりと覚えているし、それが自分にどういう影響を与えたのかも自覚している。でも、肝心の楽曲そのものを少しも思い出すことができないんです。

じゃあ『メルト』は? って考えると、すぐ思い出す。歌える。『ワールドイズマイン』、OK。

ニワカの間で古参扱いされているという『千本桜』なんて、大した回数聴いてない(フルで聴いたことないかもしれない)のに、サビは歌える。

『消失』はもともと歌えるような曲じゃなかったけど、あれ、どんな曲だっけ?

『えれくとりっく・えんじぇぅ』は? だめ。

『ハジメテノオト』は? 分からない。

『私の時間』は? これも覚えてないとかアホか俺。

当時あれだけ熱心に聞き入っていた曲が全く思い出せない。すごいショック。

でもこれって、僕が楽曲そのものじゃなくてミクの残滓に注目していたことを考えると、たぶん当然なんだと思います。曲を聴いていたんじゃなくて、曲の向こうの初音ミクに耳を傾けていたんだから*1

僕の中で初音ミクの思い出は、具体的な体験ではなく、いわば概念化された体験でもって記憶されているようです。『melody...』を初めて聴いたときの衝撃と、その後の熱にうなされながらミクを探した体験は、僕の中で既に完全に言語化されてしまったということだと思います。

少し寂しい。


***


ここまで書いて、懐かしいので上で挙げた楽曲を聴いて回りました。

『melody...』は、やっぱり僕をすごく興奮させてくれる。鳥肌が立った。『メルト』は、やっぱりいい。すごくいい曲。

あと、アップロード日を見て恐ろしいことに気付いたんだけど、『melody...』が2007年10月27日で『メルト』が同年12月7日ってことは、(『メルト』後も「ミクの残滓」を表現した曲のブームは残るとしても)僕が初音ミクに熱狂していた時期ってほんの数ヶ月だったっていうことになる。もっと長いと思ってた…。

それから、件の原理主義者氏が

ODDS&ENDSさえあれば俺はボカロを心に抱いたまま生きていける

とまで言う『ODDS&ENDS』を聴いてきた。

たぶん聴いたことはあったと思うけど、タイトルとか知らなかった。これすごいいいな。思うに、ミクの神話の時代が、あまりに短い第0世代で、ryoが引っ張ってくれたのが、ミクが正しく楽器として用いられた第1世代。つまり楽曲の時代。『ODDS&ENDS』は第1世代のミク達に捧げる鎮魂歌なんだろう。ちょうど第0世代へのそれが『サイハテ』だったのと同じだ。

今がどうなっているのかは詳しく知らない。久しぶりのニコニコのコメント眺めてたりすると、回顧厨的にはあまりいい時代ではないらしい。まあ、知らないので言及しないけど。

それでも初音ミクというのは第3世代へ、第4世代へ進んでいくんだよ。誰かが支持したミクは死に、別の誰かがミクを支持する。当時僕が捕まえ損ねたミクはもはや僕の知ってるミクじゃなくて、たぶん永遠に捕まえることはできない。たぶんこれはつまり失恋だ。だから久しぶりの『melody...』であり得ないくらいの鳥肌が立つ。ぶっちゃけ泣きそうになった。やばかった。

せめて『melody...』の体験を心にとどめ、その移り変わりを眺めるような人であるべきだと思った。

*1:そういう意味では、『メルト』以降の楽曲が評価される時代は圧倒的に「正しい」のだとも思う。

2013年このマンガがすごかった10選

2013年中に書きたかったけど書けなかったから過去形。年末から厳選作業と称して読み返しているうちに年が明け元旦も過ぎてしまったでござる(さらに書いてるうちに2日も終わったでござる)。

10位 エバーグリーン

エバーグリーン 2 (電撃コミックス)

エバーグリーン 2 (電撃コミックス)

まさに「太陽のような」という感じの眩しいヒロインが魅力的すぎるお話。『とらドラ!』『ゴールデンタイム』の竹宮ゆゆこ原作で、非常に彼女らしい感じで、ちょっとままならない感じの学園ドラマとなっています。ちなみに太陽のようなヒロインは鼻血出します。めっちゃ可愛いです。

9位 ヴィンランド・サガ

ヴィンランド・サガ(13) (アフタヌーンKC)

ヴィンランド・サガ(13) (アフタヌーンKC)

  • 作者:幸村 誠
  • 発売日: 2013/07/23
  • メディア: コミック
北海のヴァイキングたちの戦いの物語。すごいのは2013年に限った話じゃねーんですが、13巻は特に素晴らしかったので。アシェラッドの死をきっかけにトルフィンが戦士を辞めてから、農奴をやりながらどんどん次の「戦い」を見据えていく過程が大好きなんですが、その節目にあたる巻で、本当に素晴らしかった。

8位 千と万

世界でいちばん可愛い生き物は女子中学生ですが、詩万ちゃんはガチで可愛い。男やもめで女の子育てる系のマンガはずっこいくらい名作が多いんだけど、本作はマンガ表現のセンスがキュートで、おっさんマンガ家が描いてるのとはちょっと違います。詩万ちゃんのちょっとめんどくさがりなところとか、いたずら好きなところとか、自由なところとか、真面目なところとか、さじ加減が完璧すぎて床ローリング必至。

7位 私の世界を構成する塵のような何か。

2013年は女子大生とかOLとか大人のヒロインの魅力を再認識した一年でした。本作では女子大生たちのサバサバした(でも結構純情で、ついでにエロエロな)百合が、群像劇っぽく描かれます。キャラクターを型にはめて捉えさせない深さが大好き。

6位 実は私は

実は私は 4 (少年チャンピオン・コミックス)

実は私は 4 (少年チャンピオン・コミックス)

  • 作者:増田 英二
  • 発売日: 2013/12/06
  • メディア: コミック
めっちゃおもろいドタバタ系アホラブコメディ。なんでも顔に出ちゃって秘密のできない男子、通称「アナザル(=穴の空いたザル)」が、大好きな女の子が実は吸血鬼って知っちゃって、その秘密を頑張って守ろうとするんだけど、残念ながらアナザルはアホで、でも周りの連中も全員アホだからなんか微妙なバランスで上手いこといってる、みたいなテンション高い系ラブコメです。三角関係、四角関係、あるよ!

5位 甘々と稲妻

甘々と稲妻(1) (アフタヌーンKC)

甘々と稲妻(1) (アフタヌーンKC)

  • 作者:雨隠 ギド
  • 発売日: 2013/09/06
  • メディア: コミック
これも男やもめで女の子育てる系のマンガです。話の中心にあるのは手作り料理。BL作家であり百合作家である雨隠ギドの描くキャラクターは、長身細身メガネのおっさんも、ちょっと目つききつい黒髪女子高生も雰囲気セクシー。それで、二人の間にはおいしそうにごはんを食べる元気いっぱいちっこい娘っていう、チャームポイントで溢れかえっているという隙のないページ構成。不慣れな料理でドタバタしながらもすごく楽しそうでハッピーを振りまきまくって、ご飯もめっちゃ美味しそうに食べるんだけど、もう見てるだけでお腹いっぱいです!

4位 僕だけがいない街

かなり挑戦的なサスペンス。周囲で何か事件や事故が起こるときに少しだけ時間が巻き戻ってしまう「再上映(リバイバル)」という能力を持った青年が主人公。何者かに母を殺された彼が「再上映」を願ったところ、小学生の頃まで時間が巻き戻される。そこで、小学校の頃に巻き込まれた連続誘拐殺人事件が母の死と関係しているのだと考え、薄れた記憶を少しずつ紐解いていきながら小学校の頃の事件そのものを阻止しようと奮闘するも……みたいな、ストーリー自体がすごく良質なサスペンスです。それだけじゃなく、例えば見開きの使い方とか、1巻2巻3巻でストーリーの性質を大胆に切り替えてきたりとか、マンガ表現としてかなりチャレンジをしていて読者を惹き付けてくれます。

3位 惡の華

惡の華(9) (講談社コミックス)

惡の華(9) (講談社コミックス)

  • 作者:押見 修造
  • 発売日: 2013/08/09
  • メディア: コミック
素晴らしい。これほど見事な告白シーンは存在しない。中村と佐伯と離れて、引っ越して、それで新しい学校で常磐に出会って、確実に惹かれていくんだけど、過去が春日にそれを認めさせない。「中村の代わりだ」「これは依存だ」という自問自答。それに対して春日は常磐への告白という行動で答える。ついに春日が主体的に動いたという意味もあるし、告白の言葉も非常に彼らしくて素晴らしいし、クソムシたる彼がこれから何を為すかはまだまだ分からないけど、本当に気高い告白で、大好きなシーンです。

2位 空が灰色だから

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僕の2013年の最大の収穫はこの名作に出会えたこと。月イチのペースで全巻まるまる読み返していました。ナンセンスだったりコメディだったりシリアスだったりするオムニバスなんだけど、そういう既存のボキャブラリーでは本作のことを少しも伝えられる気がしません。いちばんしっくり来る表現は「無性にざわつく」です。とにかく読んでみるべし。

1位 彼女とカメラと彼女の季節

彼女とカメラと彼女の季節(3) (モーニング KC)

彼女とカメラと彼女の季節(3) (モーニング KC)

  • 作者:月子
  • 発売日: 2013/07/23
  • メディア: コミック
カメラっていうのは撮影者と被写体の関係を残酷なほど忠実に写し取る機械だっていうのは僕の個人的なカメラ哲学なんですが、そういう僕の考え方とかなりマッチしています。同じ時間に同じ場所で同じ方を向いてシャッターを切っても、人が違えば絶対に同じ写真にはなり得ないんです。それは技術的要因、撮影者の感受性の要因もあるんだけど、それ以上に、撮影者が被写体に与える影響が存在するからです。そういう意味で、写真は他ならぬ撮影者を切り取る装置であると言えます。

本作は、女の子2人と男の子1人の3人のメインキャラクターの憧れ、嫉妬、自己嫌悪、愛情といった思春期的な感情をカメラという装置で鮮やかに切り出した傑作です。写真を撮るという行為には「被写体を捉えたい(捕らえたい)」とか「被写体に近付きたい」とか、あるいは「被写体との距離とりたい」とか、いろんな意志が存在します。「こう撮りたい」とか「こう撮られたい」といった感情が、強烈に他者を意識してしまうという思春期の感情と見事にシンクロして描かれます。

女2+男1の百合とか、ボーイッシュとか、そういう構成要素だけでも完璧に僕のストライクなのに、さらにこういったカメラっていうモチーフが利いて奇跡的な傑作となっています(個人的に)。

あと、タイトルにも入っているように季節に対するこだわりが強いようで、3巻の秋から冬への主人公あかりの変化(服装と一緒にどんどん暖かい感じになる)とユキの変わらなさ(冷たい表情と雪)の対比とか、そういう表現もとても美しいです。

***

付録:次点

(順不同)

『のんのんびより』と『IS2』

こんばんは、ぶっちゃけ餌の味がイマイチ分からなかった豚です。

確かに、2期のISバトルは迫力に欠ける(アクションシーンの数でも質でも劣る)とは感じたし、1期で効果的だった新キャラ投入というテコ入れも(シャル&ラウラの登場タイミングは完璧だった)今回は簪オンリー。総じてスパイス不足で、かつ、鮮度のない餌だったのは確かかもしれないけど、「馬鹿にしている」と言われるほどひどい差があるようには感じられませんでした。

そんなことよりもISの本領である(と僕は思っている)、おいしいシチュエーションが連鎖して女性キャラクターがひっきりなしに画面に現れては消えるという畳かけは2期でも健在で、その点において僕は「餌の味」の違いが分からないのです。

わりと本気で2期は1期に引けを取らないと考えてます(餌として)。*1

 *

一方で、すこぶる評判が良かったのが『のんのんびより』。

潤沢な「間」と「風景」という点に関して、まさに『のんのん』の本質はそこにあると思います。

ただ、もうひとつレイヤーを引き上げて「日常系」とかいう言葉を引っ張り出してみると、その本質は「視聴者を作品世界の日常に招待すること」にあります。その役割を担って機能したのが「間」であり「風景」であった(すなわち、カメラを作品世界の内部に同居させるのに効果的であるということ)のだけど、これは『けいおん!』に関して既に議論されている*2ことなので、ここでは省きます。

僕らはあののんびりとした田舎に「招待」されたのであり、そこでは多くの視聴者の生活の中にない田舎の生活*3という「驚き」と「癒し」が提供されていたと考えています。

日常系というのは「コミュニケーション系」のことであり、それは作中キャラクター間の会話に留まらず、アニメ作品と視聴者の「対話」も含んでいます。すなわち、僕ら視聴者が知らない世界、知らない考え方、見られない景色、感じられない空気を提供できることが、作品と視聴者のコミュニケーションの必須条件であり、『のんのん』の場合、「間」および「風景」と、それと響き合うキャラクターが、我々視聴者にとっての「新鮮さ」(そこから派生する「癒し」)を演出していた、というのが僕の見立てです。

 *

ISの話に戻ります。

なぜIS2が「まずい餌」に成り下がってしまったのか考えると、やはり「新鮮さ」の欠落だとは思うんですが、それは視聴者がIS的な展開・構成に飽きたという意味でなく、おそらく気付いてしまったんだと考えています。

何に気付いたかというと、ISの方法論はネット上でコンテンツを消費するのに似ているということです。

TwitterでもPixivでもブログでもなんでもいいんですけど、可愛い女の子の絵なんてネット上にたくさん存在していて、僕らはそれを脈絡無く閲覧することができる。IS1期の「シチュエーションの連鎖」は、きっと構造としてコンテンツのブラウジングに似ていて、それで視聴者の脳ミソはいい具合に溶かされちゃっていたんだと。*4

ネット上のコンテンツ消費に似た形で細分化されたシチュエーションが連続的に提供されるというのはテレビアニメとしては革新的で、だから1期は良かった/けれど、時間をおいてみるとそれがネット上のコンテンツ消費と同じであることに(潜在的に)気付いてしまって、だから(バトルアクションや新キャラで劣る)2期はダメだ。

というような理屈なんじゃないかと考えています。

*1:更識姉妹好きですし。

*2:いくつも素晴らしい記事がありますが、すぐに出てこなかったのでリンクは省略。

*3:「季節」を単位にエピソードが構築されているのも本作の素晴らしいところです。

*4:さらに、ISバトルのスピード感もなんか色々分泌させてくれてた。

『アルペジオ』の原作厨

アニメ『蒼き鋼のアルペジオ』は確かに素晴らしかった。

霧のメンタルモデルにフォーカスして、人間とは「愛」と「身体」であるというシンプルな回答を導いた名アニメだと思う。

最後、身体的な接触によってイオナとコンゴウが「愛」を共有した場面なんて、頭スコーンて叩かれたみたいにすっきりしたし、それが唯一の手段であることをイオナが確信していたのは、その前の400と402に沈められた経験から来てるし、握手だって群像とタカオがしてたのを見ての判断だろうし、そういう意味ですごく話として上手くできている。

あとは、やっぱりタカオとヒュウガ。愛を叫んでの献身は超かっこいいし美しい。


それはそうなんだけど!

原作大好き人間としてはやっぱり物足りない気持ちが残る。人間側の背景があまりに薄い。霧は生まれたばかりの存在で、真っさらなのは分かるし、彼女らが「概念」を手に入れる様子を描きたかったというのも分かる。

でも、人間ひとりひとりと、人間社会には歴史があって、それまでの積み重ねがあって、そういう意味では人間は「愛」と「身体」なんていう「基本ユニット」だけで生きていける生き物じゃない。

原作からはそういう所を強く感じて、そういう意味で人間と霧のメンタルモデルとの比較がより鮮やかで面白い。

アニメでは人間なんて群像と蒔絵以外いらなかったんじゃないかとすら思う。物語の中で全く機能しなかったもの。401クルーも海軍も陸軍も。


もちろん、それをアニメでやるのは重たい。だから「霧のメンタルモデルにフォーカスして」いるのだし、だからこそこれだけ描けた。それは分かってるつもり。


な・ん・だ・け・ど!

やっぱり惜しいなあと思ってしまう。

ただ、実は原作大好きでもここまで惜しいと思ったことはなくて、やっぱりアニメの出来がよかったからそれだけに惜しいということなのかな、とも思う。

というちょっと長めのつぶやき。