ソードアート・オンライン フェアリィ・ダンス編導入部に対する違和感

ソードアート・オンライン』もSAO編が終わり、次なる世界での戦いが始まりました。キリトとアスナが「共に生き残ること」を目的に戦っていたのだから、現状、それはまだ終わっていないわけで、「姫を救い出すための戦い」的なストーリー展開に胸を熱くしております。

閑話休題。けしからん体をした可愛すぎる妹(義妹)の話。

やはりリズといい『SAO』には不憫萌え属性を満足するものがあるなと感心しているところですが、彼女の幼い顔とぱっつん前髪に対するあのいやらしい体つきのギャップは、人々に不健全な趣味を芽生えさせてしまいそうで、恐ろしいものがあります。

解釈するに、妹だけど/妹じゃないという設定を、童顔/豊満で表現しているほか、下心がスグハからキリトへの一方通行であること(パジャマがはだけてかなり大胆に胸元が開いているときにも、顔を赤くするのはスグハだけ)を効果的に表現できていると思います。

で、これまでこういう分かりやすくいやらしい子っていなかったから、スグハの体つきに『SAO』らしからぬものを感じたわけですが、その辺はだいたいこういうところで納得しています。

で、タイトルにある違和感っていうのは別で、リアルが描けていないということについて。

こんなことを書くと、「フィクション世界にリアルを持ち込む」云々の議論に発展してしまいそうですが、僕が指摘したいのは一般論ではなくて『SAO』に限った話です。

まず、リアルが描けていないということに関して、例えば以下のエントリのようなことを言っているのではないということを強調しておきます。

フィクションにリアルを持ち込もうとする人間を設定マニアという - かかづのばかもやすみやすみ - 楽天ブログ(Blog)
http://plaza.rakuten.co.jp/kakadu/diary/201210160000/

このエントリで吊し上げられている某設定マニア氏は、ゲーム世界を維持するためのアーキテクチャについて、こんな構成はありえない、と憤慨したそうです。で、それに対して「物語の都合でしょ」という、実に的確な反論。

実際にゲームSAOを作ろうと思って、その技術側面に対して明確かつ無矛盾で実行可能性を備えた記述を行ったなら、それはきっと某SEラノベを軽く超越するゲーム技術屋さん必読のハンドブックになってしまうことでしょう。

で、僕が感じている違和感は、そういうものではありません。つまり「物語の都合」で済まされるべきではないような部分に関する違和感です。

それは、SAO事件が起こったにもかかわらず、ナーヴギア(その後継機)がゲームハードとして販売され続けており、『SAO』の製作元を吸収した会社が、同じシステムを転用する形で新しいゲームソフトを販売していることです。

SAO事件を経て、社会は間違いなくナーヴギアのようなハードに対する危機感を持っています。SAO事件の主犯が逃亡中なのにSAOと同じシステムを用いたゲームを製作するなんてもっての他です。

で、これは某設定マニア氏のいうゲームアーキテクチャに対する指摘と、どこが本質的に違うのかというと、技術的な指摘ではなく社会的な指摘であるという点です。そして、とりわけ『SAO』において、社会的に「リアルが描けていない」ことは重大な欠陥だと、僕は思っています。

『SAO』は、ゲーム世界における人々の営みを描いてきました。ゲーム攻略のために戦った人だけでなく、1層に留まる人や、PKする人、戦うのではなく鍛冶などでサポートする人を描いたのは、『SAO』が単なる冒険譚でないことを示しています。

たとえゲーム世界であっても人が1万人集まったら起こるであろうことをしっかりと描いていたことが、設定先行のストーリーとは違う、人を中心に展開されるストーリーに繋がっています。『SAO』のキャラクターが魅力的なのは、それぞれが設定に飲み込まれることなく、設定を生かす形で描かれているからだと思います。

とすると、先の指摘は『SAO』の長所をひとつ潰してしまっていることになります。つまり、「囚われのアスナ」という設定のために人々の営みを度外視した、と。

原作ではちゃんとケアされている部分なのかも知れませんが、アニメを見ている限りだと、そういう不自然なところがどうしても目立ってしまう。で、最後にまた繰り返しますが、僕がこういうことを気にするのは『SAO』に限った話で、それは『SAO』がキャラクター個々人の気持ちを大事にして描かれてきたからです。