スタードライバー THE MOVIE を見て思うこと

新宿のビルの屋上――つまり島の外にサカナちゃんが立ち、冬の空気を感じる。それは紛れもなく、南の島の物語には登場しなかった冷たい空気だ。

「青春」という言葉を聞いて昔を思い返す世代はオヤジである。スタドラテレビシリーズはそう断じた。「明日には今日とは違う、もっとすごい空を見るだろう」というメンタリティこそが青春であり、銀河美少年なのだ。

「青春」という言葉を聞いて「あの頃」を思い出す我々は、すなわちオヤジなのである。そして、スタドラ世界においては「やれやれ、オヤジはダメだな」なのである。*1

スタドラテレビシリーズ放送後、オヤジ視聴者たちのもっぱらの興味はヘッドのその後にあった。少なくとも僕と僕の周りは。最終話でタクトが見ているものを理解することができず、ただ見上げることしかできなかったヘッドは、タクト、ワコ、スガタの命の煌めきに触れることで「明日のソラ」を志すことができるようになったのか。それともやはり「オヤジはダメ」なのか。

我々オヤジ視聴者たちはタクトに「見えているもの」に触れることで間接的に青春を取り戻した。しかしそれはスタドラを通した疑似体験であり、本当の意味では取り戻せていない。すなわち、やはり「青春」という言葉を聞いたときに「あの頃」を思い返し、あるいは「スタドラ世界」を思い返すようになっただけのことである。

僕がスタドラ映画を見に行った最大の関心はそこにあった。ヘッドは本当の意味で青春を取り戻すことができたのか(とはつまり、ザメクの力で「あの頃」を得るのではなく、ちゃんと「明日のソラ」を目指すようになれたのか)。言い換えると、ヘッドは救済されるのか、というところが知りたかった。

それが示されることでスタドラは完結すると思っていた。それが示されないとスタドラは完結しないと思っていた。

だから、スタドラ映画が冬の新宿にたたずむサカナちゃんで幕を上げたとき、期待は膨らんだ。ヘッドにとっての「明日のソラ」の唯一にして絶対の最有力候補がサカナちゃんだからだ。

しかし、

しかし、ヘッドのその後は描かれない。やはりザメクを奪われ、タクトが見ているものを決して見ることができないまま、スタドラ映画は幕を降ろす。

我々オヤジはまだ宙ぶらりんのままだ。この二年間、ずっと宙ぶらりんのままだ。


思うに、こういうメンタリティ自体がダメなんだと思う。

「ヘッドの救済」ってなんだ。サカナちゃんに救いを求めているあたりからして我々はオヤジであり、だからダメなのだ。あるいはダメだからオヤジなのだ。

ヘッドが「明日のソラ」を目指した(あるいはできなかった)、という事実を確認したくて仕方ないあたりが、きっとオヤジなのだ。

どうであっても、人生という冒険は続くのだ。

タクトならば、他人なんて関係なしに「明日の空」を見るだろう。それこそが銀河美少年なのだ。


と、そういう熱い気持ちを取り戻すことのできる映画でした。面白かったです。一番面白かったのはタクトが生身で空を飛んでいるところでした。