『お兄ちゃんはおしまい!』12話について

「「「「今の絶対に薬飲まずに捨てる流れやったやん!」」」

そう思った一方で、まひろはもう少し曖昧でいることを自ら選択したということになる。それは本当は間違っていることなのかもしれない。だが彼をよく知るみはりはそれを肯定的に受け入れている。引きこもりよりはずっといい。楽しそうに人と関わってくれる方がずっといい。それを選んでくれて嬉しい。

以前の記事で以下のように書いた。

TSの本質は転換(ある性を失い別の性を得る)ではなく獲得(新しい性を得る)だと個人的には考えていて、本作ではそういう前向きなTSが描かれている点が好ましい。つまり、兄まひろは女性性と妹という役割を獲得したことで兄という固定された役割をおしまいにし、その時々で兄のように振る舞ったり妹のように振る舞ったり、とても曖昧に存在できている。

社会的な立場、役割からの逸脱という点を出発点としているこのアニメにおいて、逸脱し続けることを選択しての最終回というのは、実はとてもチャレンジングだったのではないかと思う。曖昧に済ませたいなら、まひろにちんちんが復活する描写をしなければよかっただけの話だ。それをあえてして、そしてさらにまた薬を飲む選択までさせるというのは、まひろを曖昧な存在であり続けさせることに対する明確な意志を感じる。

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『お兄ちゃんはおしまい!』について

拙者、女の子が女の子であるために生理の描写があるアニメやマンガが大好き侍としては見過ごすことのできないアニメである。

みはりは良くできた妹だ
できすぎと言っても良い

昔から運動が得意で
中学では陸上の大会で記録も残している

もちろん勉強も――

優秀な妹の兄という立場
周囲の視線
重圧感

だんだんオレは――

――そのあげく女の子にされて妹のおもちゃに…

…でも実のところ最近は妙に気が軽い

自分の身の丈に合った位置に収まった感じがする

もう兄はやめにして
いっそこのまま――

ねことうふ『お兄ちゃんはおしまい!』1巻より

本作はいわゆるTSというジャンルなのだが、単に性別が変わるだけでなく、「よくできた妹」の「兄」から「妹」への役割の転換も存在する。

兄(まひろ)は妹(みはり)に対するコンプレックスを一端としてエロゲー大好き引きこもりダメニートになっているのだが、女の子になることで今まで見えていた運動や勉強といったステータス的な妹の優秀さだけでなく、髪の手入れ、下着の買い方といった「女の子としての成長」にも気づける格好となる。

その最たる例として生理の描写が、原作1巻、アニメ2話で早くも登場する。生理とは男性女性の間に存在するあまりにも深淵な谷なのだが、男性に生まれながら生理を経験できるというのはTSの醍醐味だ。それが本作では優秀だ完璧だと思っていた妹も毎月経験している苦痛として身をもって知るエピソードとして機能している。つまり、妹になることでより妹を知ることにつながっているのである。

TSの本質は転換(ある性を失い別の性を得る)ではなく獲得(新しい性を得る)だと個人的には考えていて、本作ではそういう前向きなTSが描かれている点が好ましい。つまり、兄まひろは女性性と妹という役割を獲得したことで兄という固定された役割をおしまいにし、その時々で兄のように振る舞ったり妹のように振る舞ったり、とても曖昧に存在できている。それが楽しそうに描かれている(アニメはアニメ的な演出が優れているので特に楽しそうに感じられる)。

今期の期待作なのでみなさまにもぜひ見ていただきたい。

なお、原作1巻のみKindle Unlimitedの対象となっているようだ。(このリンクはアフィリエイトリンクです)

『ぼっち・ざ・ろっく!』について

異世界転生に対する個人的見解として、転生前の知識、経験、能力を異世界に輸入しチートすること、また一方で、異世界では当たり前のことが転生者はできなかったりするアンバランスさがあると考えている。つまり、強烈に偏ったパラメータのキャラクターを簡単に物語に登場させる装置として機能している側面が異世界転生にはある。

『ぼっち・ざ・ろっく!』において、後藤ひとりことぼっちちゃんは転生者のようなものだ。

押し入れで孤独にギターのテクニックを磨き続けたぼっちちゃんは、演奏技術はあるが誰かと合わせたことも誰かの前で演奏したこともない。そんな偏ったパラメータの持ち主が、下北沢のライブハウスに転生してしまうのだ。

これによって、「演奏技術については並以上のものを持っているにも関わらず、バンドでのライブではそれを十分に発揮することができない。それはなぜか。彼女のメンタリティ=ぼっちにある」というぼっちちゃんの内面の成長を物語の主軸に持ってくることがとても自然にできている。この「自然にできている」というのが良い。

多くの視聴者は「バンド」「ぼっち」「きらら原作」というアニメの情報に気を取られ、これを単なるゆるいコメディと思っていただろう。

しかし、8話でぼっちちゃんが一人でギターを弾き始めたところでガツンと頭を叩かれるのだ。これはぼっちちゃんの成長物語でもあったのだ、と。(もちろんゆるいコメディでもある)

ぼっちちゃんが欠点を克服し輝く姿には強烈なカタルシスがあった。その背景には異世界転生でもしたかのような彼女の偏ったパラメータ設定が効果的に作用していたというのが私の解釈である。

(もちろん演出も良いと感じた。同じような演奏シーンは5話のオーディション時にもあったが、5話になくて8話にあった演出として、ぼっちちゃん主観カメラで演奏を捉えるカットがあるなど、芸が細かい印象がある)


ぼっちというのは状態のことではなく認識のことであると考えている。

つまり、孤独である=ぼっちではなく、孤独な今の状態から脱却したいと考えている=ぼっちなのだ。ぼっちちゃんが孤独ではあるがぼっちではなければ、彼女が壁にぶつかることもなかったし、壁を乗り越えることもなかった。そして私達が、彼女が壁を乗り越える姿を見ることもなかったのである。

今の状態からの脱却という意味でも、異世界転生と符合する。ぼっちちゃんは押し入れから転生したのだ。それは半分くらいは巻き込まれ事故みたいなものだったのかもしれない。だが、転生先の異世界で、ぼっちちゃんは泣き言を言いながらも頑張って変わろうとし続けている。

押し入れからの転生者
TVアニメ「ぼっち・ざ・ろっく!」オープニング映像/「青春コンプレックス」#結束バンド - YouTube より)

リコリス・リコイルは親子の物語だと思う

話題作にいっちょかみする。以前ほどしっかりアニメを見なくなったので、本当に感想というか、私はこのように見立てたという程度のことを書く。


リコリコは確かに主題が定まっていないように見えた。序盤は比較的社会性の強さが目立ったが、そこで提示されたいずれにも焦点を絞られることはなく、だんだんと登場人物間の関係性(千束とたきな、千束と真島、ミカと吉松)でストーリーが語られるようになっていった印象がある。その反面、百合的成分は終盤にかけてだんだんと濃度を増していった。

一方で、あえてひとつの主題を感じ取るなら、それは〈親子〉なのではないかなと私は思っている。


ミカと吉松はいずれも千束にとって親のような存在である。一方で、ミカと吉松では千束にどうあってほしいかが正反対であった。

また、リコリスにとってDAは親のような存在であることは、作中でも語られていた。多くのリコリスは親のために命を捧げて任務にあたっていた。


たきなはDAを追放されてリコリコにやってくるのだが、ここで千束と出会い、親からの自立を強く意識するようになる。思えばたきなは最初から最後までずっと命令違反する問題児であった。

一方で千束も吉松が自分の思い描いていた救世主ではなかったこと、また、ミカと吉松の対立を受けて、ここである意味親を失っている。

終盤にかけて百合成分が増して感じられたのは、千束とたきながそれぞれ親から切り離され、互いを強く必要とするようになったからだとも言えるかもしれない。


親子の物語とは言っても、親であってもたくさんの間違いを犯す。むしろ親のほうが多くの間違いを起こしていたのがリコリコだったかもしれない。

それでも親たちは子を生き残らせることだけはしっかりとやってのけた。子は文字通り命を与えられた。千束とたきなには未来がある。そういう物語の締めくくりだった。


ここまで書いてきた親子の関係は、いずれも血の繋がりのない関係である。

これは、脚本として注意深く異性カップルを登場させなかったのだと私は感じているが、つまり、リコリコ的な親子とは生物的なものではなく世代間の強い関係性と理解するのが良いだろう。

そう考えると、電波塔と延空木はその象徴だったのかもしれない。

電波塔は破壊されてしまった。しかし、破壊されたとしても保全され、残されることに意味がある。

延空木は破壊されなかった。千束とたきなの世代には未来があり、彼女たちもいずれ誰かの親になる。彼女たちはどんな親になるのか。彼女たちの子はどんな子だろうか。そういうことを想像させてくれる、未来に向けた親子の物語だったのだと思う。

作者が死に、蘇るはなし(それでも作者は死んでいる)

ジャンプ+の読み切り『打ち切られ漫画家、同人イベントへ行く。』を読んで作者の死について改めて思うところがあったので久しぶりにブログを書いている。

内容について言及するため、まずはこちらを読んでほしい。

shonenjumpplus.com


作者の死という考え方については、検索すればいくらでも見つかるのだが、例えば

バルトはテクストは現在・過去の文化からの引用からなる多元的な「織物」であると表現し、作者の意図を重視する従来の作品論から読者・読書行為へと焦点を移した。

バルトがここで批判するのは、作品の意味を作者の人格や思想に帰着させようとする近代的な作者観である。

作者の死 - Wikipedia

作品は作者=人格に支配されたものではないとされ、ステファヌ・マラルメが言語活動の所有者を、言語活動そのものへと置き換えたように、「書く」こととは作者が言葉を語るのではなく、言葉自体が語るものであると論じられた。現代における作者は、作品に先行し、起源とされる者から、いま、ここで、テクストのさまざまな結びつき、混ざり合い、対立を記す「書き手」となる。そうして書かれるテクストとは、無数にある文化の中心からやって来る引用の織物であり、ゆえにエクリチュールは作者の意図を解読するためのものではなく、多元的に対話を行い、パロディ化し、異議を唱え合うものとなるのである。

作者の死|美術手帖

が厳密な表現と言えそう。やや曲解しつつ端的に表現すると、

作者の死とは、フランスの文学評論家、哲学者のロラン・バルトが1967年に著したエッセイのタイトル。
作者を神のように偶像崇拝してその代弁者を気取っていた「旧」批評家を風刺し、読み方を決めるのは読者だと述べたもの。

作者の死とは (サクシャノシとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

は理解しやすいだろう。


さて、読み切り『打ち切られ漫画家、同人イベントへ行く。』では、通称『ゴブキン』の作者は打ち切りの憂き目に合う。つまり作者としての余命宣告を受ける。

最終話の原稿も進まない中、ずっと『ゴブキン』のファンでいてくれているチリタという人が同人イベントで薄い本を頒布することをSNSで目にした作者は、自身の同人誌を見られるのも最後かもしれないと、イベントに行ってみることにする。そこでチリタさんから作品に対する情熱を与えられ、無事に最終話を描き上げ、なんならその後アニメ化されるマンガ家にまで成長する、というのがストーリーなのだが、ここでいくつかポイントをピックアップしたい。


まず、作者を神のように表現するコマが目立つこと。

同人イベントに作者自身が行くことについて、担当編集の反応

過去、同人イベント後に熱く語り合った人が作者本人だと知り灰になるチリタさん

確かにSNSなどでも作者を創造主と崇める文化はよく目にする。コミュニティ内では表現は過剰な方向に発展しやすいので、それ自体を批判するわけではない。


続いて、チリタさんの情熱的妄想は作者いわく「全くそんな設定ない」こと。

作者本人に的はずれな考察を述べ続けるチリタさん

ただし、作者の死的な考え方で見れば、作者は「織物」の全てをコントロールすることはできず、「そんな設定はない」とは「私はそのような意図はもっていない」以上の意味はない。多元的な織物をどのように解釈するかは読み手であるチリタさんの自由である。(もっと進んだ表現をすれば、チリタさんにしかできない解釈がある)


そして、最後はこのストーリーのハイライトでもある、チリタさんの情熱に感化され、作者が作者として蘇るシーン。

純粋な描きたいという気持ちを取り戻す作者

ここでは事実として、チリタ=情熱的な読み手が存在しなければ『ゴブキン』は全く異なる結末を迎えていたかもしれないということが描かれている。つまり、「創造主」だけが作品を作っているのではない。


ファンコミュニティとしては、作者とは唯一絶対の存在である。それは否定のしようがない。なぜなら作者が生物的な意味で死んでしまうと作品は生まれてこないからである。したがってチリタさんの立場に立てば、作者とは絶対的な創造主であり、いわば神である。

しかしながら、実際に神は作品のすべてを作り上げているわけでもなく(=意図しない解釈をされる「織物」である)、またひとりで作り上げているわけでもない(=読み手がいなければ違った作品になっていた)という事実もまた、この作品では描かれている。

これから先もチリタさんは作者の意図しない妄想に情熱を注ぎ続けてくれることを願う。


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