『ぼっち・ざ・ろっく!』について

異世界転生に対する個人的見解として、転生前の知識、経験、能力を異世界に輸入しチートすること、また一方で、異世界では当たり前のことが転生者はできなかったりするアンバランスさがあると考えている。つまり、強烈に偏ったパラメータのキャラクターを簡単に物語に登場させる装置として機能している側面が異世界転生にはある。

『ぼっち・ざ・ろっく!』において、後藤ひとりことぼっちちゃんは転生者のようなものだ。

押し入れで孤独にギターのテクニックを磨き続けたぼっちちゃんは、演奏技術はあるが誰かと合わせたことも誰かの前で演奏したこともない。そんな偏ったパラメータの持ち主が、下北沢のライブハウスに転生してしまうのだ。

これによって、「演奏技術については並以上のものを持っているにも関わらず、バンドでのライブではそれを十分に発揮することができない。それはなぜか。彼女のメンタリティ=ぼっちにある」というぼっちちゃんの内面の成長を物語の主軸に持ってくることがとても自然にできている。この「自然にできている」というのが良い。

多くの視聴者は「バンド」「ぼっち」「きらら原作」というアニメの情報に気を取られ、これを単なるゆるいコメディと思っていただろう。

しかし、8話でぼっちちゃんが一人でギターを弾き始めたところでガツンと頭を叩かれるのだ。これはぼっちちゃんの成長物語でもあったのだ、と。(もちろんゆるいコメディでもある)

ぼっちちゃんが欠点を克服し輝く姿には強烈なカタルシスがあった。その背景には異世界転生でもしたかのような彼女の偏ったパラメータ設定が効果的に作用していたというのが私の解釈である。

(もちろん演出も良いと感じた。同じような演奏シーンは5話のオーディション時にもあったが、5話になくて8話にあった演出として、ぼっちちゃん主観カメラで演奏を捉えるカットがあるなど、芸が細かい印象がある)


ぼっちというのは状態のことではなく認識のことであると考えている。

つまり、孤独である=ぼっちではなく、孤独な今の状態から脱却したいと考えている=ぼっちなのだ。ぼっちちゃんが孤独ではあるがぼっちではなければ、彼女が壁にぶつかることもなかったし、壁を乗り越えることもなかった。そして私達が、彼女が壁を乗り越える姿を見ることもなかったのである。

今の状態からの脱却という意味でも、異世界転生と符合する。ぼっちちゃんは押し入れから転生したのだ。それは半分くらいは巻き込まれ事故みたいなものだったのかもしれない。だが、転生先の異世界で、ぼっちちゃんは泣き言を言いながらも頑張って変わろうとし続けている。

押し入れからの転生者
TVアニメ「ぼっち・ざ・ろっく!」オープニング映像/「青春コンプレックス」#結束バンド - YouTube より)