リコリス・リコイルは親子の物語だと思う

話題作にいっちょかみする。以前ほどしっかりアニメを見なくなったので、本当に感想というか、私はこのように見立てたという程度のことを書く。


リコリコは確かに主題が定まっていないように見えた。序盤は比較的社会性の強さが目立ったが、そこで提示されたいずれにも焦点を絞られることはなく、だんだんと登場人物間の関係性(千束とたきな、千束と真島、ミカと吉松)でストーリーが語られるようになっていった印象がある。その反面、百合的成分は終盤にかけてだんだんと濃度を増していった。

一方で、あえてひとつの主題を感じ取るなら、それは〈親子〉なのではないかなと私は思っている。


ミカと吉松はいずれも千束にとって親のような存在である。一方で、ミカと吉松では千束にどうあってほしいかが正反対であった。

また、リコリスにとってDAは親のような存在であることは、作中でも語られていた。多くのリコリスは親のために命を捧げて任務にあたっていた。


たきなはDAを追放されてリコリコにやってくるのだが、ここで千束と出会い、親からの自立を強く意識するようになる。思えばたきなは最初から最後までずっと命令違反する問題児であった。

一方で千束も吉松が自分の思い描いていた救世主ではなかったこと、また、ミカと吉松の対立を受けて、ここである意味親を失っている。

終盤にかけて百合成分が増して感じられたのは、千束とたきながそれぞれ親から切り離され、互いを強く必要とするようになったからだとも言えるかもしれない。


親子の物語とは言っても、親であってもたくさんの間違いを犯す。むしろ親のほうが多くの間違いを起こしていたのがリコリコだったかもしれない。

それでも親たちは子を生き残らせることだけはしっかりとやってのけた。子は文字通り命を与えられた。千束とたきなには未来がある。そういう物語の締めくくりだった。


ここまで書いてきた親子の関係は、いずれも血の繋がりのない関係である。

これは、脚本として注意深く異性カップルを登場させなかったのだと私は感じているが、つまり、リコリコ的な親子とは生物的なものではなく世代間の強い関係性と理解するのが良いだろう。

そう考えると、電波塔と延空木はその象徴だったのかもしれない。

電波塔は破壊されてしまった。しかし、破壊されたとしても保全され、残されることに意味がある。

延空木は破壊されなかった。千束とたきなの世代には未来があり、彼女たちもいずれ誰かの親になる。彼女たちはどんな親になるのか。彼女たちの子はどんな子だろうか。そういうことを想像させてくれる、未来に向けた親子の物語だったのだと思う。