作者が死に、蘇るはなし(それでも作者は死んでいる)

ジャンプ+の読み切り『打ち切られ漫画家、同人イベントへ行く。』を読んで作者の死について改めて思うところがあったので久しぶりにブログを書いている。

内容について言及するため、まずはこちらを読んでほしい。

shonenjumpplus.com


作者の死という考え方については、検索すればいくらでも見つかるのだが、例えば

バルトはテクストは現在・過去の文化からの引用からなる多元的な「織物」であると表現し、作者の意図を重視する従来の作品論から読者・読書行為へと焦点を移した。

バルトがここで批判するのは、作品の意味を作者の人格や思想に帰着させようとする近代的な作者観である。

作者の死 - Wikipedia

作品は作者=人格に支配されたものではないとされ、ステファヌ・マラルメが言語活動の所有者を、言語活動そのものへと置き換えたように、「書く」こととは作者が言葉を語るのではなく、言葉自体が語るものであると論じられた。現代における作者は、作品に先行し、起源とされる者から、いま、ここで、テクストのさまざまな結びつき、混ざり合い、対立を記す「書き手」となる。そうして書かれるテクストとは、無数にある文化の中心からやって来る引用の織物であり、ゆえにエクリチュールは作者の意図を解読するためのものではなく、多元的に対話を行い、パロディ化し、異議を唱え合うものとなるのである。

作者の死|美術手帖

が厳密な表現と言えそう。やや曲解しつつ端的に表現すると、

作者の死とは、フランスの文学評論家、哲学者のロラン・バルトが1967年に著したエッセイのタイトル。
作者を神のように偶像崇拝してその代弁者を気取っていた「旧」批評家を風刺し、読み方を決めるのは読者だと述べたもの。

作者の死とは (サクシャノシとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

は理解しやすいだろう。


さて、読み切り『打ち切られ漫画家、同人イベントへ行く。』では、通称『ゴブキン』の作者は打ち切りの憂き目に合う。つまり作者としての余命宣告を受ける。

最終話の原稿も進まない中、ずっと『ゴブキン』のファンでいてくれているチリタという人が同人イベントで薄い本を頒布することをSNSで目にした作者は、自身の同人誌を見られるのも最後かもしれないと、イベントに行ってみることにする。そこでチリタさんから作品に対する情熱を与えられ、無事に最終話を描き上げ、なんならその後アニメ化されるマンガ家にまで成長する、というのがストーリーなのだが、ここでいくつかポイントをピックアップしたい。


まず、作者を神のように表現するコマが目立つこと。

同人イベントに作者自身が行くことについて、担当編集の反応

過去、同人イベント後に熱く語り合った人が作者本人だと知り灰になるチリタさん

確かにSNSなどでも作者を創造主と崇める文化はよく目にする。コミュニティ内では表現は過剰な方向に発展しやすいので、それ自体を批判するわけではない。


続いて、チリタさんの情熱的妄想は作者いわく「全くそんな設定ない」こと。

作者本人に的はずれな考察を述べ続けるチリタさん

ただし、作者の死的な考え方で見れば、作者は「織物」の全てをコントロールすることはできず、「そんな設定はない」とは「私はそのような意図はもっていない」以上の意味はない。多元的な織物をどのように解釈するかは読み手であるチリタさんの自由である。(もっと進んだ表現をすれば、チリタさんにしかできない解釈がある)


そして、最後はこのストーリーのハイライトでもある、チリタさんの情熱に感化され、作者が作者として蘇るシーン。

純粋な描きたいという気持ちを取り戻す作者

ここでは事実として、チリタ=情熱的な読み手が存在しなければ『ゴブキン』は全く異なる結末を迎えていたかもしれないということが描かれている。つまり、「創造主」だけが作品を作っているのではない。


ファンコミュニティとしては、作者とは唯一絶対の存在である。それは否定のしようがない。なぜなら作者が生物的な意味で死んでしまうと作品は生まれてこないからである。したがってチリタさんの立場に立てば、作者とは絶対的な創造主であり、いわば神である。

しかしながら、実際に神は作品のすべてを作り上げているわけでもなく(=意図しない解釈をされる「織物」である)、またひとりで作り上げているわけでもない(=読み手がいなければ違った作品になっていた)という事実もまた、この作品では描かれている。

これから先もチリタさんは作者の意図しない妄想に情熱を注ぎ続けてくれることを願う。


あわせて読みたいかもしれない

honeshabri.hatenablog.com

2014年を振り返る

たぶんこのブログでアイカツについて書いたことってなかったと思うのですが、僕はアイカツが大好きです。

2014年を振り返ると、本当にアイカツに楽しませてもらって、ただただ感謝という感じです。ということで、2014年を振り返るというタイトルで、完全に自分のアイカツライフを振り返ります。読んでも何の役にも立たないよ。

* * *

そもそも、アイカツを見たのってほとんど偶然でした。女児アニメほぼ興味なし(ニチアサ起きてたらプリキュア見る程度)だったので、本来なら1話も見ないところだったんだけど、ほとんど気まぐれで1話を見て、「なんだこれ」って完全に爆笑しながら「よし、来週も見よう!」って。ほんとに1話を見た自分を褒めたい。

それで、だんだんアイカツにハマっていって、すごい「お気に入り」になっていきました。当初はいちごちゃんのひたむきな姿勢に惹かれていて、毎週元気をもらっていました。あと、ユリカ様登場で「なんだこの子は!!」ってなって、ユリカ様推しっぽいことをしたりもしました。

で、今年の2, 3月なんですが、ちょっとした事件が起きます。自分の目が、気づけばあおいちゃんばかり追いかけていることに気づいたのです。ちょうど「キラめきはアクエリアス」のちょっと前あたりですね。ライブとかでちらっと映ったら、センターそっちのけで、目線が移動しちゃう感じ。

僕は頭でアニメを見てしまうところがあって、あるキャラクターを「評価」するのに「根拠」を求めてしまうところがありました。要するに「どうしてこのキャラが好きなのか」は説明できなきゃいけないって思ってた。

それが、まったく無根拠にあおいちゃんばかり見てしまうようになっていて、まさしくキャラクターを「好き」になれたことに気づいた瞬間だったんだと思います。

「どのアニメが好き?」って聞かれた時に、返答に困ってしまう気持ち、ひょっとしたら分かっていただける方もいるかもしれませんが、僕はまさにこういうタイプでした。アニメっていろいろあるし、それぞれ一長一短みたいなもので、手放しに「これがいいよ!」って言ってしまえる作品はない。だから、「どのアニメが好き?」って聞かれた時にすごく困る。何らかのテーマが欲しい。「○○の観点で言うと☓☓が一番だと思う」とか、そういう返事をしたい。

だからキャラクターに対してもそういうスタンスをとっていました。なぜいちごちゃんに元気づけられるのか。なぜユリカ様はかわいいのか。それは説明できなきゃいけないんだって思ってた、ということです。

で、なんで好きなのか全然わからないんだけど、どうやらあおいちゃんが好きらしい、という革命が起こったのです。ちょっとしたパニックです。

それで、あおいちゃんのどこが好きなんだろうって考えるわけですよね、やっぱり。理由はいくらでもあるんです。いちごファンとしては最高に視点を同期できるキャラだし、ソレイユでいるとき本当に楽しそうだし、ウィンクは素敵だし、ていうか穏やかじゃない。

でもそれってたぶん、そういうポイントを集めてあおいちゃんを好きになったわけじゃないはずなんです。感覚の話なんだけど、理性的に好きになっているという感じじゃない。だからむしろ、好きになってたくさん見るようになったから好きポイントにたくさん気づいた、と。順序としてはこちらが正しそうな気がします。もう完全に恋ですよ、これ。

そういう革命に自覚的になった夏頃から、かなりアニメ生活が変化していきました。それより前からTwitterでフォローして頂いている方は分かるかもですが、急にアイカツ画像をリツイートしまくるアカウントになって、反面、小難しいツイートが激減したかと思います。

自分の中でアニメにおける感情と言語のプライオリティが逆転した、という意味では完全に革命です。体験であったり感情であったり、そういう心の中にあるものを、必ずしも言語的に説明する必要はないと思うようになったんです。

夏頃からイベントの類にも参加するようになりました。連れ回してくれる素敵な友人がいてくれたのに感謝です。ライブイリュージョンに行ったり、アイカツオンリーイベントに行ったり(実はオンリーって人生初参戦)。コミケを夏冬両方参加したのも初めて。事前にサークルチェックして、こういう順序で回るってちゃんとした計画立てたのも初めて。あおいちゃんっちも育てました。映画も何回も行ったし、年末のライブは一体感!では映画館でサイリウム振りながら奇声を上げるというかなりレアな経験出来ました。ほんとにオタク生活が楽しかった。

話がそれてきたので戻しますが、僕はアイカツが好きで、霧矢あおいちゃんが大好きです。

それを語ることはできても、説明することは今のところできません。ただ、それでいいのかなと思っています。

とにかく、こういうふうに好きなものを好きって言えるのが、すごく楽しい。当たり前のことだと思われるかもしれないけど、どこかをちょっとこじらせてしまったりしたら、なかなか難しいものなんです。

だから、そう言わせてくれたアイカツとあおいちゃんにはいくら感謝しても足りない。ほんとうにありがとう。かけがえのない存在です。

* * *

深夜の時間帯にだばーっと書き出した文章なので、内容もあれですが表現的にも読みにくいところが多かったんじゃないかと思います。ただ、翌日冷静になって修正したらこの記事きっとお蔵入りするなと思ったので出してしまします。

2015年も、アイカツ含めた素敵なオタク活動していく所存ですので、どうぞよろしくお願いします。

2014年このマンガがすごかった10選

今年はなんとか年内にまとめることができました。

今年はあまり数を読めていなかったりしてて、なにより少女マンガの方面をほぼ読めていないのが残念です。なので、当然少女マンガは入ってきません。ごめんなさい。あ、あと今年は少年ジャンプも全然読めてない(と思う)。

ちなみに、去年のはこれ。

去年はランキングにしてましたが、今年は順番とすごかったレベルは関係ありません。

リンクは最新刊のみ。あと、自分がKindle主義なのでKindleへのリンクのみ。

* * *

聲の形

方々でさんざん取り上げられているので、いまさら紹介する必要もないかなと思ったのですが、やっぱりこれを入れないわけにはいかないかなと思います。だって、手話で、何言ってるのか全然わからないのに、全身がブルって震えて鳥肌立つんだもん。この迫力は本当にすごい。本当にすごいとしか言えない。

2014年って、まさに聲の形の年だったんじゃないでしょうか。一気に駆け抜けて、7巻で完結。本当にありがとうございました。

ちーちゃんはちょっと足りない

「おい、このマンガがすごい!のまんまじゃねーか仕事しろ」って怒られるのも承知の上で、でも、やっぱりこれも外せない。

阿部共実ってオムニバスのイメージが強いと思うんですが、こういう1冊まるまる1ストーリーで、新しい魅力に気付きました。ホラーだったりナンセンスだったり、そういうのを軽やかに行ったり来たりして、次のページがどうなってるか予想できないっていうの、阿部共実のすごい長所なんですけど、ちゃんとストーリーがあると、読者としてはいつでも裏切られる準備をしてなきゃいけなくって、すごく緊張感が出るんです。

で、そこにちーちゃんっていう圧倒的に「抜けた」存在があわさって、阿部共実独自の体験を演出できている。2015年もこういうの読みたい!

クズの本懐

今年、圧倒的に化けました。もともと最高にかわいくて最高にエロい絵を描ける人だったけど、話も書けるんだぜ!

ちゃんとストーリーを説明すると、お互い他に好きな人がいるのに、その好きな人には別に好きな人がいるから「契約」でとりあえず恋人になってる花火ちゃんと麦くんが一応の主人公。心が満たされることと体が満たされることってイコールじゃなくて、あと、心の満たされ方だって健全な方法とは限らない。そういうのをひっくるめて人類みんなクズな話。もうみんながみんな迷子。

自分が間違ったことをしてる、自分は弱いって自覚しながら、でも正しいとか強いとかよく分からなくて、結局間違い続けてしまうんだけど、これがすごくかわいい!そしてエロい!!

このどうしようもなく間違ってしまう感じ、絶対ガチ百合が似合う!って思っていたのですが、本当にレズ野郎登場するし、話にぐいぐい絡んでくるし、もう最高です。しかしあのレズ野郎は絶対に幸せになれないだろうなあ…

累(4) (イブニングコミックス)

累(4) (イブニングコミックス)

今すごく勢いがあるマンガ。そして構成が天才的。

天才女優の娘にして醜い顔で生まれてきた累(かさね)が主人公。塗って口づけすると相手と顔を交換することができるという母の形見の口紅を利用して、「顔だけいい女優」のニナと契約し、ニナとして舞台に立って評価される累。なんだけど、どんどん自分を見失っていく。累もニナも。累が光を浴びるほど、読者は破滅の未来しか見えなくなってくる。アイデンティティが問われ続ける。すごい話です。

とりあえず1巻だけでも読んでみてください。絶対に引き込まれます。

だがしかし

だがしかし好きだー。すごい好きだー。って、たぶんそう思えるマンガ。

説明するほどのことでもないかなって思うんだけど、駄菓子屋を舞台に駄菓子屋の跡取りと駄菓子メーカー令嬢が仲良くギャグしてるのがすごく愛おしいマンガです。

要素を分解すると「やるな!」って感じるんですが、「懐かしさ」のある「うんちく」を「ギャグ」交えつつ「美少女」がするっていう時点で結構キテる。

あとヒロインのほたるちゃんが、すごく作者の好み全開なデザインで、最近の少年マンガってこういうの増えてきたなってすごく好感持てますね。誰もが好きそうなデザインじゃなくて、「あー、この作者はこういうの好きなんだろうな」って思えるから一緒に好きになれる。

ふらいんぐうぃっち

田舎で魔女で『よつばと!』です。以上!

というのは投げ過ぎな気もするのですが、ほんとにこれ以上なにを紹介すれば……という感じ。

コマの間と全体的なノリは非常に『よつばと!』に近いんだけど、田舎とか森とか舞台にしてるのと、あと、話の中心には魔女ってキーワードもあって、ちょっと「ここじゃないどこか」感が強いです。なお、魔女とは言っても、毎日好きなことしてのんびり生きてる感じの魔女なのでバトったりはしません。

水色イデア

バイタリティしかない女の子と、絵の才能はあるのになぜか冷めちゃってる男の子が出会って、一緒に漫画部がんばろう!って、そういう王道。

主人公の女の子の目が、すっごいキラキラーって輝いてて、ほんとに自分こういう子に弱い。

絵がうまいしコマ割りセンスあるし描き込みすごいし、1ページの中にポップなのとダークなのを混在させられる才能です。2015年の期待。

コンプレックス・エイジ

26歳コスプレイヤーというかなりきわどいリアリティのある主人公と、そのコスプレ仲間たちのマンガ。アニメが好き、コスプレが好きっていう純粋な気持ちでやってうはずなのに、年齢の問題とか、リアルでバレちゃう問題とか、そういう障害がいくらでも降って湧いてくる。

オタク趣味って、胸を張って「これが好きだ」って言えたとしても、心のどこかにはコンプレックスが存在しているもので、ちょっとした事でイライラしてしまったり落ち込んだりとか、そういうことが多いと思います。そういう些細な感情の変化がすごく表現できていて、すごく胸に刺さる。

「あああああああ!」とか「ぎゃあああああああああ!」とか、間違いなく今年一番悲鳴を上げたマンガです。

あの娘にキスと白百合を

(紙の本は年末にすでに2巻が出ていますが、Kindleは年始待ちなので実はまだ読んでいません)

ザ・百合って感じ。学園で、優等生ぶってる女の子と、努力しなくても何でもできちゃう女の子がお互いに惹かれ合うお話です。すっごいふわふわしててきれいな話です。つまり、光の百合です。

すごくオーソドックスで、まっすぐ前に進んでいく感じ、むしろ最近はなかなか読めないような気がして、今年最強のお気に入り百合です。

ラグタイム

フラグタイム 2 (Championタップ!)

フラグタイム 2 (Championタップ!)

しかし今年最強の百合といえば間違いなくこちら。百合のエッセンスが全部詰まっているから、もう百合と『フラグタイム』はイコールでいいと思う。

1日3分だけ時間を止めて好きなことをできる森谷さんと、クラスの美少女村上さんがひとつずつ着実に分かり合っていく様子がたまらなくキュート。

なにが素晴らしいって、二人が仲良くなるきっかけが、森谷さんが時間を止めて村上さんのパンツ見てる時に、なぜだか村上さんが動けてしまうというハプニングなあたりが最高ですよね。女の子がパンツ見た/パンツ見られたで仲良くなるんだから、もう最高です。

森谷さんは3分自由にできるとは言っても、真面目で度胸とかなくて大それたことができなくて、せいぜい人のパンツを覗くくらいしかできないんだけど、そういう感覚すごくよく分かる。あと、1日3分を共有するようになって、村上さんが3分の間に教室で制服を脱いだりするんだけど、その感覚も分かる。時間を止めるっていうファンタジー要素がありながら、実はこの上なくしっかり地に足をつけた百合を展開できているのがすごく好きです。

かれこれ1ヶ月くらい、「時間を作って『フラグタイム』を語り尽くす記事を書こう…1万字くらいで…」って思っているのですが、なかなか時間が取れず年が暮れてしまいました。まだ諦めていないので、ひょっとしたら新年に『フラグタイム』を語り尽くす重たい記事が上がるかもしれません。その時はよろしくお願いします。

C87はこんなの書きました

今回もアニ☆ブロのかたから声をかけていただきまして、つらつらとしたためた文章をアニブックログに載せていただくはこびとなりました。

http://blog.livedoor.jp/anibooklog/archives/18505711.html

詳細を抜粋するとこんな感じになります。

■頒布予定
12/30 (火) 冬コミ (C87) 3日目、東地区 Sブロック 22a
「アニ☆ブロ」ブース にて

■お値段
・・・なんか情報ないですが、いつもどおりならきっと500円だったと思います。

夏はクロスレビューメインといった感じでしたが、冬は個人が頑張って書いたちょっと長めの読み物中心です。総ページ数74ページのボリューム感ということです。

目次等々ございますので、上のリンクたどってみてください。

ここから、自分はこんなのを書いたよ!っていう宣伝になります。

『鑑賞者はどこにいるのか』という題で、アニメを鑑賞しているとき、鑑賞者という主体がアニメ作品とどう関わっているのか、というところを掘り下げています。ぶっちゃけ、そんなんどうでもええやんっていうレベルの話ですが、個人的には結構まじめに考えたし、結論にもそれなりに満足しています。

文字数にして1万字を超えているのでかなりの読みごたえがあると思います。もし、仮に、万が一、ちょっと興味をもったかもしれないかたは、当日よろしくお願いいたします。

最後にキーワードを散らせておきます。出てくる順番にピックアップしました。

けいおん!』のあずにゃんカメラ / 『ヨルムンガンド』のカメラワーク / ギャルゲー的悦楽 / ツンデレ / 『グリザイアの果実』みちるルート / 身体論 / 『生徒会役員共』のスズヘッド / 作者性善説 / ロラン・バルトの「作者の死」 / 押井守 / テクスト論 / 構造主義 / 作品性善説 / 西尾維新 / 物語 / キャラクター / ボトル半分のワイン / 物語論 / 言説分析 / 右上からガンダム / 富野由悠季の演出理論 / 記号着地 / ユーザー体験 / 能 / 『アイカツ!』のライブシーン

あ、いい感じにカオスだ。

しかし、上げてしまってから言うことでないが、記号着地のあたり誤用してるなあ。恥ずかしい。

『楽園追放』の感想は「かわいい」しかありえない

https://twitter.com/nyalra/status/536132879495872513

こういういい感じのツイートはいくつか見ていたんだけど、TwitterとCMだけという前情報ほぼなし状態で見てきました。

いやいや〜、まさかそんな。「かわいい」しかないとか、そんなわけないでしょうが!と思って見た直後のツイートがこちらです。

いやもうホント、「かわいい」しか出てこない。驚愕ですね。

でまあ、なにがそんなにかわいいのか、気づいたことを走り書き程度でメモしておこうと思います。

* * *

アンジェラ・バルザックちゃんのかわいさは身体性・リアリティから得られている部分が大きいのだと思う。身体性とはつまり、彼女自身が肉体を有していると鑑賞者が錯覚できるかどうか、ということ。

ディーヴァの彼女は身体を持たない二進数なわけだけど、それがリアルワールドに降りてきたらどうか。彼女が踏みしめた地面には足あとが残り、砂をすくい上げれば溝ができる。すなわち、彼女は実体をもって世界に「存在している」。

環境を共有する物質の存在は、かわいさに限らずあらゆる人間性を伝達するのに役立つもの。物質に魂が宿ると言い換えてもいい。ほら、フロンティアセッターちゃんだって、あのロボット姿を現してから愛おしさがじわじわ湧き上がったんだから。

でまあ、『楽園追放』の主題のひとつに肉体の有無というものがあった。ディーヴァとリアルワールドの対比構造。ロックは骨で聞くんだよ。アンジェラちゃんがリアルワールドに来てから、その辺のテーマと絡めながら、彼女が肉体を得たことを立て続けに表現する。それは、彼女が我々と同じ身体を持っていると錯覚させることとイコール。

強がってずっと寝ないでいたら目の下にくまが出来る。これ、すごくかわいい。

このかわいさって、単純にキャラクターの魅力でもあるし、くぎゅの魅力でもあるんだけど、その背後には身体性のマジックがある。彼女と我々は何かを共有できているのかもしれないという錯覚がある。

その後、調子に乗ってチンピラと戦ってピンチになる。これは、鑑賞者が予測できた展開。つまり、我々が彼女の存在を錯覚して、特性を認識して、将来を予測して、その通りになっている。こういう「キャラクターの動きや将来の展開を予測できる/理解できる」という感覚は、彼女が我々に理解可能なものという錯覚を与える。

で、そういう状態(我々は彼女と何かを共有しているかもしれないし、彼女のことを理解できるかもしれないという錯覚状態)になって、アンジェラちゃんの心の内にある「ディーヴァに認められなければならない」「功績を挙げなければならない」という想いを知らされる。

つまり、身体の反対に位置する社会性が彼女のアイデンティティであることを知らされる。

このへんが人間社会に疲れた鑑賞者の心に響いたかどうかは、実はそれほど問題でないと思うのでスキップするけど、重要なのは彼女が身体的な欲求を有していなかったという点*1

つまり、ここでアンジェラちゃんと鑑賞者は一瞬切り離されてしまう。鑑賞者は彼女となにも共有できていないのかもしれない、という恐怖。

なんだけど、ここからが怒涛のアピールタイム。おかゆを食べるの、超かわいい。あれってつまり、彼女は身体を有していて、身体が食事を欲しているということ。つまり「こちら側」であると感じられる瞬間なんだと思う。それから、あの身体が単なる情報の入れ物ということはなく、寝なかったり食べなかったりしたら体調崩すし、食欲っていう身体由来の欲求も備わっている、普通の人間の身体であることの証明でもある*2

だから安心できるし、別のシーンでもの食べたり、なんか入れられて味変わったのに驚いているのとか、すごいかわいい。

それから、彼女がディンゴに対して「ディーヴァの人に恐怖を感じないのか」と問いかけたのもすごくいい。あれって完全に彼女が恐怖を感じているからこその質問なんだけど、じゃあ恐怖ってなんだって考えると、彼女が身体とかいう得体のしれないものを持て余しているからこその恐怖なんだろうと思う。こういうの、すごくかわいい。

で、最後が「仁義」なんだけど、あれもうまい。彼女は身体を得たことで新しい価値観をたくさん手に入れたんだけど、じゃあディーヴァにおける承認欲求はどうなったんだっけ?って考えると、それと決別したことを明確に表すのが「仁義」なんだと思う。仁義って、要するに理屈じゃない人と人との関係性(社会性の一部)だから。

仁義のために叫びながら体張って戦う姿は、社会性までアップデートされた、まさにすべてが新しくなったアンジェラちゃんで、それは完全に鑑賞者と多くのものを共有できる「人間」であると言える。

SFの文脈で言うと、こういう人格と身体の関係に言及する作品は多い(と思う)。『楽園追放』の場合は、そういうSF的なテーマ・世界観のすべてがアンジェラちゃんのかわいさに注ぎ込まれていると言える。

まだまだ書き出しきれてない感じがするけど、今ならありとあらゆる要素を「それはアンジェラちゃんのかわいさの演出のためにあります」って言える自信ある。

こんな走り書きが『楽園追放』の全てだと言うつもりはないので、あくまでこの記事を一言で表すなら、なんだけど、「ヒロインが身体を手に入れて苦労しながら新しい価値観を手に入れて、その価値観とやらは鑑賞者が強く共有・共感できる類のものであったから、ヒロインがとてもかわいい」っていうことだと思う。

だから、すごい鋭かったり、独特な感性でも持っていない限りは、感想は「かわいい」しか出てこないと思う。

*1:より厳密に言うと、鑑賞者が共有できるレベルの身体的な欲求を有していなかった

*2:あと、身体由来の欲求ってちょっと性的で、そのへんのアピール力も高い