作者が死に、蘇るはなし(それでも作者は死んでいる)

ジャンプ+の読み切り『打ち切られ漫画家、同人イベントへ行く。』を読んで作者の死について改めて思うところがあったので久しぶりにブログを書いている。

内容について言及するため、まずはこちらを読んでほしい。

shonenjumpplus.com


作者の死という考え方については、検索すればいくらでも見つかるのだが、例えば

バルトはテクストは現在・過去の文化からの引用からなる多元的な「織物」であると表現し、作者の意図を重視する従来の作品論から読者・読書行為へと焦点を移した。

バルトがここで批判するのは、作品の意味を作者の人格や思想に帰着させようとする近代的な作者観である。

作者の死 - Wikipedia

作品は作者=人格に支配されたものではないとされ、ステファヌ・マラルメが言語活動の所有者を、言語活動そのものへと置き換えたように、「書く」こととは作者が言葉を語るのではなく、言葉自体が語るものであると論じられた。現代における作者は、作品に先行し、起源とされる者から、いま、ここで、テクストのさまざまな結びつき、混ざり合い、対立を記す「書き手」となる。そうして書かれるテクストとは、無数にある文化の中心からやって来る引用の織物であり、ゆえにエクリチュールは作者の意図を解読するためのものではなく、多元的に対話を行い、パロディ化し、異議を唱え合うものとなるのである。

作者の死|美術手帖

が厳密な表現と言えそう。やや曲解しつつ端的に表現すると、

作者の死とは、フランスの文学評論家、哲学者のロラン・バルトが1967年に著したエッセイのタイトル。
作者を神のように偶像崇拝してその代弁者を気取っていた「旧」批評家を風刺し、読み方を決めるのは読者だと述べたもの。

作者の死とは (サクシャノシとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

は理解しやすいだろう。


さて、読み切り『打ち切られ漫画家、同人イベントへ行く。』では、通称『ゴブキン』の作者は打ち切りの憂き目に合う。つまり作者としての余命宣告を受ける。

最終話の原稿も進まない中、ずっと『ゴブキン』のファンでいてくれているチリタという人が同人イベントで薄い本を頒布することをSNSで目にした作者は、自身の同人誌を見られるのも最後かもしれないと、イベントに行ってみることにする。そこでチリタさんから作品に対する情熱を与えられ、無事に最終話を描き上げ、なんならその後アニメ化されるマンガ家にまで成長する、というのがストーリーなのだが、ここでいくつかポイントをピックアップしたい。


まず、作者を神のように表現するコマが目立つこと。

同人イベントに作者自身が行くことについて、担当編集の反応

過去、同人イベント後に熱く語り合った人が作者本人だと知り灰になるチリタさん

確かにSNSなどでも作者を創造主と崇める文化はよく目にする。コミュニティ内では表現は過剰な方向に発展しやすいので、それ自体を批判するわけではない。


続いて、チリタさんの情熱的妄想は作者いわく「全くそんな設定ない」こと。

作者本人に的はずれな考察を述べ続けるチリタさん

ただし、作者の死的な考え方で見れば、作者は「織物」の全てをコントロールすることはできず、「そんな設定はない」とは「私はそのような意図はもっていない」以上の意味はない。多元的な織物をどのように解釈するかは読み手であるチリタさんの自由である。(もっと進んだ表現をすれば、チリタさんにしかできない解釈がある)


そして、最後はこのストーリーのハイライトでもある、チリタさんの情熱に感化され、作者が作者として蘇るシーン。

純粋な描きたいという気持ちを取り戻す作者

ここでは事実として、チリタ=情熱的な読み手が存在しなければ『ゴブキン』は全く異なる結末を迎えていたかもしれないということが描かれている。つまり、「創造主」だけが作品を作っているのではない。


ファンコミュニティとしては、作者とは唯一絶対の存在である。それは否定のしようがない。なぜなら作者が生物的な意味で死んでしまうと作品は生まれてこないからである。したがってチリタさんの立場に立てば、作者とは絶対的な創造主であり、いわば神である。

しかしながら、実際に神は作品のすべてを作り上げているわけでもなく(=意図しない解釈をされる「織物」である)、またひとりで作り上げているわけでもない(=読み手がいなければ違った作品になっていた)という事実もまた、この作品では描かれている。

これから先もチリタさんは作者の意図しない妄想に情熱を注ぎ続けてくれることを願う。


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