おおかみこどもの雨と雪: 受け入れることと隠すこと

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 『おおかみこどもの雨と雪』を見ました。見てから一週間くらいが経ちます。なんで一週間も経ったのかというと、単純に間にコミケが挟まったとかもあるんだけど、実は冷静に考える、冷静に書くための時間が必要だったからです。

 僕がこの記事で書きたいことは、例えば本作における女性像らしきものとか、メタファ(私生児、ADHD自閉症)とか、あるいは田舎暮らしのリアルがどうとか、そういうことではないのです。だから、そういう議論に加わるつもりは一切ないし、もちろんそういう内容にもなっていません。これは僕も久しぶりに書く純粋な感想となっています。

 この記事では、『おおかみこども』を見て、一週間ほどゆっくり考えて、とりあえず現状ここまでたどり着いたというところを淡々と書きます。で、その結論というのは、とりあえず、

こんな感じ。思いついたことをメモしただけのツイートですので、分かりにくいかと思いますが、詳しくはこれ以降で説明します。

 上のツイートに加えて、ファンタジー世界において奇跡が起こらない(物語は実に淡々と進んだ)ことに関しても言及します。

個 性

 おおかみこどもの雨と雪はいずれも個性的な子どもです。しかし、その個性は彼らがおおかみこどもであるところに由来します。すなわち、彼らが人間でありオオカミであることが個性的なのです。

 それで、この個性的なこどもたちを育てるにあたって、彼らの親はこう考えます。まず、父親、おおかみおとこは「将来は自由な職業に就かせてやりたい」と考えます。彼は自分がおおかみおとこであることを隠さねばならず、大学(というか、おそらく学校そのもの)に通うことができなかったのでしょう。肉体労働の傍ら、大学に忍び込んで講義を受け、そこで花と出会いました。人間の社会で人間として生きているおおかみおとこは、自分の子どもも人間社会の中で生きていくことを望み、自分が得られなかった自由を手にすることを願ったのです。

 それに対して、おおかみおとこを失った花は「人間として、オオカミとして、どちらの道も選べるように」と考えて、田舎での生活を始めます。人間として生きた彼を好きになって、子どもを作って、ずっと一緒に生きていくと確信していたのに、「彼がオオカミとして迎える死」はあまりにも突然で、何の前触れもありませんでした。この死は花にとって衝撃的だったに違いありません。おおかみおとこはやはりオオカミでもあるという事実を目の当たりにした花は、子どもたちの未来の選択肢として「オオカミとして生きる」を付け加えます。

 選択肢が少ない。僕はそう感じます。人間であること/オオカミであることは互いに相容れず、二者択一の問題として捉えられていることに疑問を覚えました。それはすなわち、自分の人間としての側面/オオカミとしての側面を押し殺して生きることを意味しているからです。

 花の願い(人間/オオカミどちらの道も選べるように)は、その後まるで呪いのように物語をある方向へ導きます。さながら野生児のように、狩りをし、蛇と戦い、虫を集めてきた雪は、小学校入学を境に、他者から圧倒的に外れた己の個性を恥じるようになります。反対に、田舎に越してきたときは虫を嫌がっていた雨は、人見知りで人を避け、山に入るうちに自然の中で生きることを覚えます。

 これは紛れもなく人間社会/自然での生活に適応したということであり、つまり、彼らがおおかみこどもを「辞めた」ということに他なりません。「人間でありオオカミである」という生き方は、彼らの父親も母親も考えることがなく、そして、彼らもまた当然のようにその一方を選んだのです。

隠すこと

 おおかみこどもであった子どもたちは、それぞれ自分の半分を捨てました。雪は自分がオオカミであることを、雨は自分が人間であることを捨てて、それぞれ人間社会/自然で生きていくことを選びました。これから先、雪は自分がオオカミでもあることを、雨は自分が人間でもあることを隠しながら、大人になり、そして父親や先生のように死んでいくのでしょうか。

 街中では児童相談所の人、田舎では近所の親切な人。そういった人々に対しても、雪と雨は嘘をついてオオカミであることを隠している。隠さなければならないのは、世の中にはおおかみこどもを受け入れられない人が間違いなく存在しているからです。

 そうやって雪は普通の女の子になり、雨は普通のオオカミになる。没個性、ここに極まれり。強烈すぎる個性は、他者からすると受け入れがたいものですから。

受け入れること

 花の笑顔は受け入れる笑顔です。自分の身に降りかかること、大切な人の身に降りかかること、全部、笑って受け入れる。そんな花だからこそ彼を受け入れられたのだし、その後の厳しい人生も受け入れてきました。

 世の中の人全てが花のように個性的であることを受け入れられれば、おおかみこどもは「人間かつオオカミ」として生きていけるのに。

 そういうことを考えたのですが、でも、やっぱりそんなに甘くはないだろうと思います。

 花とおおかみおとこの彼の話。ここでもポイントは、彼が突然オオカミとして死んで、その経緯を花は知らないということだと思います。すなわち、おおかみおとこであることを受け入れられた彼でも、花の前ではオオカミになろうとしないこと。また、彼がおおかみおとこであることを受け入れた花も、なぜ彼が死んだのか全然知らないこと。

 要するに受け入れるということは、花が人間としておおかみおとこの彼を受け入れるという、それだけのことなのです。彼が見せたがらない(隠そうとしている)部分に関しては、花は何も知らない。

 だから、いつの間にか山に入るようになり、自然の中で生きていこうとする(オオカミである)雨に対して、花は母親として何かをしてあげることができません。なぜなら彼女が人間だから。おおかみおとこを、おおかみこどもを受け入れられる人間でも、あのときの雨に何かをしてあげることはできないのです。

 別れ際、花は雨と彼を錯覚します。彼と短い時間しか過ごせなかった花は雨ともっと長く生きていたいのに、花には雨がオオカミであるために絶対に触れられない部分があって、それはつまり、花が彼との別れの過程を知らないことと同じです。だから「まだ何もしてあげてない」のに雨との別れは避けようがない。

 これは悲しみです。

奇跡の場所

 本作品はおおかみおとこというファンタジーを取り入れながら、物語そのものは実に淡々と進んでいきます。奇跡的なことなんてほとんど起こらずに、厳しさや辛さが先に立つシナリオです。ですが、僕はその中で特徴的な(奇跡的な)場所が二箇所だけあったと考えています。

 ひとつは花と彼とが出会った花畑。まるでこの世界ではないような絵が印象的なあの場所は、花と彼、二人のためだけの場所です。

 そしてもうひとつは、花が子どもたちと駆けた雪山です。純白が無を象徴する雪に覆われた山で、子どもたちは人間でもオオカミでもなく、ただおおかみこどもとして存在し、そして花はただ彼らの母親として存在していました。

 隠すとか受け入れるとか、そういうことを超越した場として花畑があり、雪山があったと考えています。特に雪山は、この記事の趣旨である「人間かつオオカミ」として、というところと深く関連しています。でも、それらの場所が「奇跡の場所」であったのは、そこに他者の介入がない場所であり、現実的でない場所であったためです。街、田舎社会、学校。それらの場所では決して奇跡は起きません。つまり、おおかみこどもは人間である/オオカミであるの選択を迫られ、花は人間でなければならないのです。

 これまで書いてきた流れをざっと振り返ると、

  1. 雪と雨は個性的である(人間かつオオカミ)
  2. 過ぎた個性は隠さなければならない(人間/オオカミの選択)
  3. 受け入れるということは解決にはならない(人間/オオカミの隔たり)
  4. だから(奇跡の場所を除いて)奇跡は起きえない

という感じです。

それでも生きる

 人と違うということを隠し、自分のアイデンティティの半分を捨てて生きていかなければならない(そこに奇跡は起きない)ということに関する悲しみについて述べてきました。いかにも絶望的な、どうしようもない隔たりについて述べてきました。でも、『おおかみこども』はそういうネガティブな話ではなくて、もっと肯定的な話です。言い換えると未来を目指す話です。

 終盤、雪はクラスメイトの草平に自らがオオカミであることを打ち明け、謝罪します。これは、草平(あるいは他の人間たち)との「これから」を生きていくにあたって絶対必要なことだと、雪自身が判断したためです。ちょうどおおかみおとこの彼が花に受け入れられ、花と共に生きていけると確信したように、ここで雪は人間として生きていくことを真に決断します。話が前後するのだけど、親の迎えが来ないことに関して、草平が「誰も来なければこのまま生きていくしかない」と言ったことも、彼らの、辛さや苦しさを受け入れて未来を志向する気持ちを表しています。

 あるいは人間である花や、人間として生きることを決めた雪と決別する形になった雨ですが、彼もまた先生の後を継ぐという未来を見据えています。嵐は自然の厳しさの象徴として描かれていますが、彼はその嵐に立ち向かい、山に入りました。また、雨が立ち向かった困難は自然の厳しさだけでなく、母親との別れでもあります。

 二人の子どもたちは、それぞれ生き方は違っていても「おおかみこどもとしての苦しみ」と闘います。

未来の話

 まとめると、『おおかみこども』は、奇跡は起きないが、その中で悲しさを受け入れて未来を目指すという賛歌であると言えます。

 それで、そもそも発端となった「過ぎた個性は引っ込めろ。環境に適応しろ。そうしなければ生きていけない」という問題に関して、最初に引用したツイート(「個性的であるということは逸脱することではない」)が答えになります。

 これから先、オオカミであることを隠して人間社会で生きていく雪は、それでもやはり十分に個性的だろうということです。

 逸脱しては生きていけない。だから強烈な個性は捨てなければならない。おおかみこどもは辞めなきゃならない。でも、おおかみこどもを辞めたとしても、個性が全て失われるわけではない。

 大学の講堂で花がおおかみおとこを見つけられたのは、彼の発する独特の雰囲気のおかげでした。おおかみこどもを辞めて人間になった彼は、それでもやはり他の人とは違う何かを持つのです。この記事の最初に掲げた画像には「私が好きになった人は、“おおかみおとこ”でした」とあります。花にとって彼はおおかみおとこであるために特別だったのではなく、大好きになってからおおかみおとこであることも受け入れたのです。

 誰かにとって特別であるということが「正解」であるとすると、オオカミであること(逸脱すること)を辞め、他者と関わりを持つことは尊ばれるべきです。

 そういう意味で、『おおかみこども』は、失うことを肯定する、失った後を見据えるという賛歌であったのだと僕は考えています。

SWITCH Vol.30 No.8 特集:細田守『おおかみこどもの雨と雪』はこの世界を祝福する

SWITCH Vol.30 No.8 特集:細田守『おおかみこどもの雨と雪』はこの世界を祝福する