ツイッターで長文連投する人
大好きです。どんどんやって下さい。
最近の話ではなく、少し前から「(続き)とか140字オーバーの長文をツイッターに投稿するやつなんなの? 死ぬの?」的な意見はちらほら見られる(とは言え、そこまで嫌われているわけでもなさそうだけど)のに対し、「この人のツイート、内容はディープだし、繋げると1000文字くらいいくんじゃない!? カッコイイ!!」的な意見は全く見ないのです。
だから言おう。
平日の明け方5時とか、さすがの一般アニオタも寝静まった頃に、ブルンブルンとエンジンを吹かせ、140字マックスのツイートをこれでもかと言わんばかりにTLに浴びせてくる人、大好きです! もっとやって下さい!!
いわゆるブログとツイッターの住み分けみたいな話だと思います。「主張したいことがたくさんあるならブログにまとめて書いてくれよ」という話。で、僕としてもその意見は理解できる。
それでもやっぱりブログ持ちにも関わらず長文連投する人はいるわけで、ということはその人にとってツイッターにポストするメリットが当然存在しているはず。一般的によく言われているのは心理的な負荷を軽減できるという点でしょうか。
「これただのつぶやきだから~ 発言に責任とかないから~」みたいな、半分逃げ半分ディフェンスという素晴らしいスタンス。
でも、これって投稿者側の負荷だけじゃなく、閲覧者側の負荷も下げてるんじゃないですか。
その一連の長文連投ツイートを読んでもいいし読まなくてもいい。いくつか単語を拾い上げて読んだ気になってもいい。ひたすら受動的に、スマホで画面をスクロールするだけで、読んでいるような読んでいないような曖昧な存在になれる。
ブログ記事となると、例えばRSSに登録していたり、それこそツイッターのTLに流れてきたのを拾ってみたり、いずれにせよ何らかの操作によってブログ記事を開くことが必要で、どこか多少なりともアクティブにならざるを得ないと感じています。
そのアクティブ要素が原因で、僕の場合、ブログはちゃんと読まないといけない(理解しないといけない)ような気がしてしまって、それができないならサッパリ読まないほうがいいと思ったりする。つまり、0/1の存在であって、ツイッターのTLを眺めているときのような確率的で曖昧な存在ではないのです。
だから、僕はツイッターを眺めているほうが楽だし、そういう適当な状態でなら、ちょっとなに言ってんのか分かんないようなツイートだって「ちょっとなに言ってんのか分かんないなー」って言いながら何となく情報を摂取することができる。すっごい楽。
これは閲覧に関する心理的負荷を軽減しているっていうことだと思います。だから、長文連投には閲覧者側にもメリット*1が存在していて、そういう観点で僕は長文連投する人が大好きです。
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余談だけど、これ、僕が大沖のマンガ好きなのに似てる。
*1:もちろんこれは裏返すとデメリット
百合姫の『私の世界を構成する塵のような何か。』が文学だ
もう初版からずいぶん経っていますが、基本的には面白いマンガの蔵出し企画みたいなものだと思って下さい。あと、これも紹介記事的なスタンスなのでネタバレが含まれるような感想はありません。
私の世界を構成する塵のような何か。 1 (IDコミックス 百合姫コミックス)
- 作者:天野 しゅにんた
- 発売日: 2012/08/18
- メディア: コミック
私の世界を構成する塵のような何か。 2 (IDコミックス 百合姫コミックス)
- 作者:天野 しゅにんた
- 発売日: 2013/04/18
- メディア: コミック
すんごい胸が苦しくなる。心が芯の芯から切なくなる。
百合ってそういうものだと思う。百合の本質は「間違うこと」にあると、僕は思っている。その意味では、この妙に覚えにくい名前のマンガ家が書いた妙に長ったらしい名前のマンガは、至高の百合マンガだと思う。
物語の構成員は7人の大学生女子。
感情にもろくてなんでも表情に出てしまうのに自分の気持ちには気付かない女の子。
律儀でまじめですごく弱くて幸せになる才能がない女の子。
気に入った子はすぐにベッドにエスコートするビッチだけど面倒見のいい女の子。
自分の性欲を嫌悪する女の子。
したいことをなんでもするアホで奔放な女の子。
お金持ちのお嬢様で変人だけど言ってることはすごく正しい女の子。
なんでも面倒くさがるくせに人の温かさには触れていたい面倒くさい女の子。
この子たちが、本気で誰かを大切に思って、考えて考えて、好きな人の幸せとか願って行動して、あるいは何もできなくて、それでどんどん間違っていく話。
で、こういうのを描くのはすごく難しい。ある程度確立されたキャラがあって、それを組み合わせてシチュが作れて、それを何となく連続させて物語のできあがりという大量生産のラインからは一線を画した百合マンガで、そういう意味で「文学」だと思う。
で、こういう話を描けるのは、セリフ回しの質が高いから。
上で4番目に書いた子が、ある理由があって自分を卑下しなくちゃいけなくなったときに「あたしは弱くてずるくてエロくて頭がおかしいの」って言うんだけど、こういうの本当に天才だと思う。弱い、ずるい、エロいは残念ながら読者も認めざるを得ない客観的事実なんだけど、頭がおかしいはこの子の主観。自分自身を見失ってしまったという事実がありのままに表現されている一言。理性的に自分を分析した言葉と、自分のことが理解できなくて感情的に口走ってしまった言葉が、1つの吹き出しの中でせめぎ合う。
セリフ1つにそういうところを詰め込めるセンスがあって、そのせいで本当にびっくりするくらい胸がきゅうきゅう苦しくなる。
オススメです。
アフタヌーンの『亜人』が面白い
先日第2巻が発売になったgood!アフタヌーンの『亜人』が面白いので紹介します。講談社マンガ嫌いの僕が言うから間違いない。本当に面白いです。
あと、紹介なのでネタバレ的なものは最小限したつもり。
- 作者:桜井 画門
- 発売日: 2013/03/07
- メディア: コミック
- 作者:桜井 画門
- 発売日: 2013/06/07
- メディア: コミック
ずばり「亜人」と呼ばれる人の中に紛れ込んだバケモノがこの話の中核を成す。
亜人について知られていることはただ一つ、死なないということ。どこから生まれてくるとか、どんな特徴があるとか、普通の人とどう違うのかとか、全然知られていない。
そしてこの死なないということに関しても、よくある不死身とは違って、普通にケガをする。だから、ある人間が亜人であるかどうか、死んでみなければ分からない。
これがすごく面白い。
主人公はトラックにはねられて自分が亜人だと知る。蘇るところを衆目にさらされる。亜人は捕らえられ、非人道的な人体実験を「死ぬまで」受け続ける。なぜなら亜人は人でないから、らしい。
それから主人公と、変わり者の友人の二人の逃避行が始まるわけだけど、このマンガの面白いところは、主人公が極めて人間的な感性を持っていること、だんだん亜人的な思考を行うようになること、それから、周囲の人間があまりに亜人に無関心であること。
例えば、誰一人として「自分も亜人かもしれない」なんてことは考えもしない。自分が亜人でないことを証明する方法はないのに、それでも亜人を他人事として、テレビの中のこととして消化できる。「へえー、国内三人目の亜人か」くらいの話。
ストーリーの転がし方もうまい。亜人に関して人々が何を考えて何を喋り、どう行動するのか(行動しないのか)にフォーカスしている。そこにフォーカスした上で、テンポ良く話が動く。ずっと緊張感が続いていてぐいぐい引き込まれる。面白い。2巻でもスピードは落ちない。
『言の葉の庭』感想:感情/感覚、主人公/ヒロイン、新海誠
先月末に新海誠監督作品『言の葉の庭』が封切りとなりました。初日に観賞したんだけど、その後ばたばたとしてしまったので今更だけど気付いたことを簡単に書き留めておきます。
新海作品は大好きで、だいたいのタイトルは複数回見ている(はず)です。その中でずっと思っていたのが、スクリーンの内と外(登場人物と鑑賞者)で共有しにくい曖昧な感情(切ないとか苦しいとか、かなり感性に依存する感情)を表現するときに、万人に共通の感覚的な表現を添えているということ。端的に言うと、「感情表現」を「感覚表現」として画にしている。
例えば『秒速5センチメートル』。ある女の子に会いたい一心で電車を乗り継ぎ乗り継ぎ、でも天候のトラブルで電車が止まってしまって……という、そういう場面。不安とか焦りとか心細さとか、色々あるんだけど、それを寒い車内という「シチュエーション」あるいは寒いという「皮膚感覚」を添えることで上手く伝えています。
例えば『雲の向こう、約束の場所』。大きな決断に際し、拳銃なんて物騒なものが登場し、腕を負傷します。決断に関する心の痛みを誰でも共有できる身体的な痛みに乗せて表現しています。
例えば『星を追う子ども』。序盤終盤を問わず、物語が大きく動くところでは、やはりキャラクター各々が物質的な傷を負います。
今回の『言の葉の庭』でも、その方法はしっかり踏襲されています。タカオは、ユキノに踏み込むためのいわば儀式として、ユキノを傷つけた学生につっかかり、返り討ちでボコボコにされる。ユキノは、去ろうとするタカオを追いかけ、裸足で駆け、階段で転ぶ。
こういう誰でも分かる「痛み」が鑑賞者をぐっとスクリーンの内側に引き込む力を持っている。――ということは、まあ基本的なことなので騒ぎ立てるようなことでもないんだけど、今回の『言の葉の庭』では、この「感覚表現」がシナリオレベルで効果的に機能していたということを書いておきたい、というのが本エントリの趣旨。なのでここまで前フリ。
また新海作品全般の話をだけど、新海作品では主人公/ヒロイン間のやりとり(あるいはやりとりのなさ)がよく描かれます。例を挙げるのは、くどくなるので止めとこ。
で、『言の葉の庭』なんだけど、ここでも描かれる。強烈に描かれる。
雨の日の午前は学校に行かず公園で靴のスケッチをするタカオ。するとそこで毎回会えるお姉さんのユキノ。で、お互いにその時間をすごく大切にしている。同じ場を共有し(ユキノはタカオのためにベンチを空ける)、同じ時間を共有している(雨の日の午前)。
でも、その共有は実は嘘で、本当は一方通行。
ユキノはタカオのことを知っている。彼が自分の勤め先の学校の生徒であること。彼が靴の職人を目指していること。
でも、タカオはユキノのことを知らない。彼女が自分の学校の先生であること。彼女が雨の日だけでなく毎日公園に来ていること。極めつけは、弁当の味が分からないこと。
食い違い、すれ違い、すなわち、やりとりのなさ。
この辺が新海作品の醍醐味なんだけど、この「味覚がない」というのが、二人の関係を見事に象徴している。つまり、ただ同じ場所にいるだけで、なにも共有なんてできていない。
で、梅雨明けとか云々はすっ飛ばしてラストの話になるんだけど、終盤の痛みの表現について。
そういう、お互いに大切に思ってるんだけど踏み込めず踏み込ませられずで、会える会えないすら天候任せな二人が、ようやくちゃんと気持ちを共有するという段階に至ったときに、二人とも体にケガをする。痛みを共有する。
すれ違いを味覚で表現し、一転、共有を痛みで表現する。キャラクターと鑑賞者をつなぐ表現手法が、ここではキャラクターとキャラクターがつながったことを表現するための手法としても機能している。見事でした。
スタードライバー THE MOVIE を見て思うこと
新宿のビルの屋上――つまり島の外にサカナちゃんが立ち、冬の空気を感じる。それは紛れもなく、南の島の物語には登場しなかった冷たい空気だ。
「青春」という言葉を聞いて昔を思い返す世代はオヤジである。スタドラテレビシリーズはそう断じた。「明日には今日とは違う、もっとすごい空を見るだろう」というメンタリティこそが青春であり、銀河美少年なのだ。
「青春」という言葉を聞いて「あの頃」を思い出す我々は、すなわちオヤジなのである。そして、スタドラ世界においては「やれやれ、オヤジはダメだな」なのである。*1
スタドラテレビシリーズ放送後、オヤジ視聴者たちのもっぱらの興味はヘッドのその後にあった。少なくとも僕と僕の周りは。最終話でタクトが見ているものを理解することができず、ただ見上げることしかできなかったヘッドは、タクト、ワコ、スガタの命の煌めきに触れることで「明日のソラ」を志すことができるようになったのか。それともやはり「オヤジはダメ」なのか。
我々オヤジ視聴者たちはタクトに「見えているもの」に触れることで間接的に青春を取り戻した。しかしそれはスタドラを通した疑似体験であり、本当の意味では取り戻せていない。すなわち、やはり「青春」という言葉を聞いたときに「あの頃」を思い返し、あるいは「スタドラ世界」を思い返すようになっただけのことである。
僕がスタドラ映画を見に行った最大の関心はそこにあった。ヘッドは本当の意味で青春を取り戻すことができたのか(とはつまり、ザメクの力で「あの頃」を得るのではなく、ちゃんと「明日のソラ」を目指すようになれたのか)。言い換えると、ヘッドは救済されるのか、というところが知りたかった。
それが示されることでスタドラは完結すると思っていた。それが示されないとスタドラは完結しないと思っていた。
だから、スタドラ映画が冬の新宿にたたずむサカナちゃんで幕を上げたとき、期待は膨らんだ。ヘッドにとっての「明日のソラ」の唯一にして絶対の最有力候補がサカナちゃんだからだ。
しかし、
しかし、ヘッドのその後は描かれない。やはりザメクを奪われ、タクトが見ているものを決して見ることができないまま、スタドラ映画は幕を降ろす。
我々オヤジはまだ宙ぶらりんのままだ。この二年間、ずっと宙ぶらりんのままだ。
思うに、こういうメンタリティ自体がダメなんだと思う。
「ヘッドの救済」ってなんだ。サカナちゃんに救いを求めているあたりからして我々はオヤジであり、だからダメなのだ。あるいはダメだからオヤジなのだ。
ヘッドが「明日のソラ」を目指した(あるいはできなかった)、という事実を確認したくて仕方ないあたりが、きっとオヤジなのだ。
どうであっても、人生という冒険は続くのだ。
タクトならば、他人なんて関係なしに「明日の空」を見るだろう。それこそが銀河美少年なのだ。
と、そういう熱い気持ちを取り戻すことのできる映画でした。面白かったです。一番面白かったのはタクトが生身で空を飛んでいるところでした。