百合姫の『私の世界を構成する塵のような何か。』が文学だ

もう初版からずいぶん経っていますが、基本的には面白いマンガの蔵出し企画みたいなものだと思って下さい。あと、これも紹介記事的なスタンスなのでネタバレが含まれるような感想はありません。

すんごい胸が苦しくなる。心が芯の芯から切なくなる。

百合ってそういうものだと思う。百合の本質は「間違うこと」にあると、僕は思っている。その意味では、この妙に覚えにくい名前のマンガ家が書いた妙に長ったらしい名前のマンガは、至高の百合マンガだと思う。

物語の構成員は7人の大学生女子。

感情にもろくてなんでも表情に出てしまうのに自分の気持ちには気付かない女の子。

律儀でまじめですごく弱くて幸せになる才能がない女の子。

気に入った子はすぐにベッドにエスコートするビッチだけど面倒見のいい女の子。

自分の性欲を嫌悪する女の子。

したいことをなんでもするアホで奔放な女の子。

お金持ちのお嬢様で変人だけど言ってることはすごく正しい女の子。

なんでも面倒くさがるくせに人の温かさには触れていたい面倒くさい女の子。

この子たちが、本気で誰かを大切に思って、考えて考えて、好きな人の幸せとか願って行動して、あるいは何もできなくて、それでどんどん間違っていく話。

で、こういうのを描くのはすごく難しい。ある程度確立されたキャラがあって、それを組み合わせてシチュが作れて、それを何となく連続させて物語のできあがりという大量生産のラインからは一線を画した百合マンガで、そういう意味で「文学」だと思う。

で、こういう話を描けるのは、セリフ回しの質が高いから。

上で4番目に書いた子が、ある理由があって自分を卑下しなくちゃいけなくなったときに「あたしは弱くてずるくてエロくて頭がおかしいの」って言うんだけど、こういうの本当に天才だと思う。弱い、ずるい、エロいは残念ながら読者も認めざるを得ない客観的事実なんだけど、頭がおかしいはこの子の主観。自分自身を見失ってしまったという事実がありのままに表現されている一言。理性的に自分を分析した言葉と、自分のことが理解できなくて感情的に口走ってしまった言葉が、1つの吹き出しの中でせめぎ合う。

セリフ1つにそういうところを詰め込めるセンスがあって、そのせいで本当にびっくりするくらい胸がきゅうきゅう苦しくなる。

オススメです。

アフタヌーンの『亜人』が面白い

先日第2巻が発売になったgood!アフタヌーンの『亜人』が面白いので紹介します。講談社マンガ嫌いの僕が言うから間違いない。本当に面白いです。

あと、紹介なのでネタバレ的なものは最小限したつもり。

亜人(1) (アフタヌーンKC)

亜人(1) (アフタヌーンKC)

  • 作者:桜井 画門
  • 発売日: 2013/03/07
  • メディア: コミック
亜人(2) (アフタヌーンKC)

亜人(2) (アフタヌーンKC)

  • 作者:桜井 画門
  • 発売日: 2013/06/07
  • メディア: コミック

ずばり「亜人」と呼ばれる人の中に紛れ込んだバケモノがこの話の中核を成す。

亜人について知られていることはただ一つ、死なないということ。どこから生まれてくるとか、どんな特徴があるとか、普通の人とどう違うのかとか、全然知られていない。

そしてこの死なないということに関しても、よくある不死身とは違って、普通にケガをする。だから、ある人間が亜人であるかどうか、死んでみなければ分からない。

これがすごく面白い。

主人公はトラックにはねられて自分が亜人だと知る。蘇るところを衆目にさらされる。亜人は捕らえられ、非人道的な人体実験を「死ぬまで」受け続ける。なぜなら亜人は人でないから、らしい。

それから主人公と、変わり者の友人の二人の逃避行が始まるわけだけど、このマンガの面白いところは、主人公が極めて人間的な感性を持っていること、だんだん亜人的な思考を行うようになること、それから、周囲の人間があまりに亜人に無関心であること。

例えば、誰一人として「自分も亜人かもしれない」なんてことは考えもしない。自分が亜人でないことを証明する方法はないのに、それでも亜人を他人事として、テレビの中のこととして消化できる。「へえー、国内三人目の亜人か」くらいの話。

ストーリーの転がし方もうまい。亜人に関して人々が何を考えて何を喋り、どう行動するのか(行動しないのか)にフォーカスしている。そこにフォーカスした上で、テンポ良く話が動く。ずっと緊張感が続いていてぐいぐい引き込まれる。面白い。2巻でもスピードは落ちない。

『言の葉の庭』感想:感情/感覚、主人公/ヒロイン、新海誠

先月末に新海誠監督作品『言の葉の庭』が封切りとなりました。初日に観賞したんだけど、その後ばたばたとしてしまったので今更だけど気付いたことを簡単に書き留めておきます。

新海作品は大好きで、だいたいのタイトルは複数回見ている(はず)です。その中でずっと思っていたのが、スクリーンの内と外(登場人物と鑑賞者)で共有しにくい曖昧な感情(切ないとか苦しいとか、かなり感性に依存する感情)を表現するときに、万人に共通の感覚的な表現を添えているということ。端的に言うと、「感情表現」を「感覚表現」として画にしている。

例えば『秒速5センチメートル』。ある女の子に会いたい一心で電車を乗り継ぎ乗り継ぎ、でも天候のトラブルで電車が止まってしまって……という、そういう場面。不安とか焦りとか心細さとか、色々あるんだけど、それを寒い車内という「シチュエーション」あるいは寒いという「皮膚感覚」を添えることで上手く伝えています。

例えば『雲の向こう、約束の場所』。大きな決断に際し、拳銃なんて物騒なものが登場し、腕を負傷します。決断に関する心の痛みを誰でも共有できる身体的な痛みに乗せて表現しています。

例えば『星を追う子ども』。序盤終盤を問わず、物語が大きく動くところでは、やはりキャラクター各々が物質的な傷を負います。

今回の『言の葉の庭』でも、その方法はしっかり踏襲されています。タカオは、ユキノに踏み込むためのいわば儀式として、ユキノを傷つけた学生につっかかり、返り討ちでボコボコにされる。ユキノは、去ろうとするタカオを追いかけ、裸足で駆け、階段で転ぶ。

こういう誰でも分かる「痛み」が鑑賞者をぐっとスクリーンの内側に引き込む力を持っている。――ということは、まあ基本的なことなので騒ぎ立てるようなことでもないんだけど、今回の『言の葉の庭』では、この「感覚表現」がシナリオレベルで効果的に機能していたということを書いておきたい、というのが本エントリの趣旨。なのでここまで前フリ。

また新海作品全般の話をだけど、新海作品では主人公/ヒロイン間のやりとり(あるいはやりとりのなさ)がよく描かれます。例を挙げるのは、くどくなるので止めとこ。

で、『言の葉の庭』なんだけど、ここでも描かれる。強烈に描かれる。

雨の日の午前は学校に行かず公園で靴のスケッチをするタカオ。するとそこで毎回会えるお姉さんのユキノ。で、お互いにその時間をすごく大切にしている。同じ場を共有し(ユキノはタカオのためにベンチを空ける)、同じ時間を共有している(雨の日の午前)。

でも、その共有は実は嘘で、本当は一方通行。

ユキノはタカオのことを知っている。彼が自分の勤め先の学校の生徒であること。彼が靴の職人を目指していること。

でも、タカオはユキノのことを知らない。彼女が自分の学校の先生であること。彼女が雨の日だけでなく毎日公園に来ていること。極めつけは、弁当の味が分からないこと。

食い違い、すれ違い、すなわち、やりとりのなさ。

この辺が新海作品の醍醐味なんだけど、この「味覚がない」というのが、二人の関係を見事に象徴している。つまり、ただ同じ場所にいるだけで、なにも共有なんてできていない。

で、梅雨明けとか云々はすっ飛ばしてラストの話になるんだけど、終盤の痛みの表現について。

そういう、お互いに大切に思ってるんだけど踏み込めず踏み込ませられずで、会える会えないすら天候任せな二人が、ようやくちゃんと気持ちを共有するという段階に至ったときに、二人とも体にケガをする。痛みを共有する。

すれ違いを味覚で表現し、一転、共有を痛みで表現する。キャラクターと鑑賞者をつなぐ表現手法が、ここではキャラクターとキャラクターがつながったことを表現するための手法としても機能している。見事でした。

スタードライバー THE MOVIE を見て思うこと

新宿のビルの屋上――つまり島の外にサカナちゃんが立ち、冬の空気を感じる。それは紛れもなく、南の島の物語には登場しなかった冷たい空気だ。

「青春」という言葉を聞いて昔を思い返す世代はオヤジである。スタドラテレビシリーズはそう断じた。「明日には今日とは違う、もっとすごい空を見るだろう」というメンタリティこそが青春であり、銀河美少年なのだ。

「青春」という言葉を聞いて「あの頃」を思い出す我々は、すなわちオヤジなのである。そして、スタドラ世界においては「やれやれ、オヤジはダメだな」なのである。*1

スタドラテレビシリーズ放送後、オヤジ視聴者たちのもっぱらの興味はヘッドのその後にあった。少なくとも僕と僕の周りは。最終話でタクトが見ているものを理解することができず、ただ見上げることしかできなかったヘッドは、タクト、ワコ、スガタの命の煌めきに触れることで「明日のソラ」を志すことができるようになったのか。それともやはり「オヤジはダメ」なのか。

我々オヤジ視聴者たちはタクトに「見えているもの」に触れることで間接的に青春を取り戻した。しかしそれはスタドラを通した疑似体験であり、本当の意味では取り戻せていない。すなわち、やはり「青春」という言葉を聞いたときに「あの頃」を思い返し、あるいは「スタドラ世界」を思い返すようになっただけのことである。

僕がスタドラ映画を見に行った最大の関心はそこにあった。ヘッドは本当の意味で青春を取り戻すことができたのか(とはつまり、ザメクの力で「あの頃」を得るのではなく、ちゃんと「明日のソラ」を目指すようになれたのか)。言い換えると、ヘッドは救済されるのか、というところが知りたかった。

それが示されることでスタドラは完結すると思っていた。それが示されないとスタドラは完結しないと思っていた。

だから、スタドラ映画が冬の新宿にたたずむサカナちゃんで幕を上げたとき、期待は膨らんだ。ヘッドにとっての「明日のソラ」の唯一にして絶対の最有力候補がサカナちゃんだからだ。

しかし、

しかし、ヘッドのその後は描かれない。やはりザメクを奪われ、タクトが見ているものを決して見ることができないまま、スタドラ映画は幕を降ろす。

我々オヤジはまだ宙ぶらりんのままだ。この二年間、ずっと宙ぶらりんのままだ。


思うに、こういうメンタリティ自体がダメなんだと思う。

「ヘッドの救済」ってなんだ。サカナちゃんに救いを求めているあたりからして我々はオヤジであり、だからダメなのだ。あるいはダメだからオヤジなのだ。

ヘッドが「明日のソラ」を目指した(あるいはできなかった)、という事実を確認したくて仕方ないあたりが、きっとオヤジなのだ。

どうであっても、人生という冒険は続くのだ。

タクトならば、他人なんて関係なしに「明日の空」を見るだろう。それこそが銀河美少年なのだ。


と、そういう熱い気持ちを取り戻すことのできる映画でした。面白かったです。一番面白かったのはタクトが生身で空を飛んでいるところでした。

アーススターの話 ― もしかしたら愛の話かもしれない

最近、コミックアーススターの、アニメ化ありきのプロモーション手段に対する批判とか、そういうものを目にします。

ことのはじめは、TVアニメ『てーきゅう』(ごめんなさい、見ていません)の放送前に、いろんなところでいろんな人が原作1巻発売と同時にアニメ化発表という圧倒的な原作不足に対する不安(あるいは不満)を述べたことでしょう。

そのときの僕の感覚は「いよいよ原作が尽きたのか」という方向に向いていたのですが、そうではなく、アーススターがそもそもアニメ化をプロジェクトの一環としてマンガ連載を企画しているらしいということに気付いたのは、恥ずかしいながら今年に入ってからのことでした。

コミックアーススターは「漫画から始まる、メディアミックスコミック誌」というのがキャッチフレーズのようです。他のマンガ(や他の原作メディア)がアニメをある種の集大成と見なしているのとは異なり、必ずしも高いコストをかけないアニメ化でファンを獲得&コミックに箔を付けようという売り出し方なのでしょう。

そのやり口がモラル的にどうとか、ビジネスとして賢いとか、そういうのはちょっと判断に困るところではあるけれど、これだけ既存他誌の存在するマンガ業界に参入するための戦略としては理にかなっており、合理的であると判断できます。

声優グラビアについても、これまた賛否は分かれるものの、はじめからインターネットラジオやアニメ化を考えているのなら極めて合理的だし、最近の声優の実際が声や演技だけでなく外見やトークを含めたキャラクターとして消費されるコンテンツであるということを鑑みても自然な起用です。ちなみに今月のグラビアは、これまでの声優にはなかなかいなかった女優顔タイプの内田真礼ちゃんだそうです。ほら、ちょっと興味持っちゃったじゃないですか。

やり方としては間違っていないかもしれない。でも、アーススターに対してなんだか妙な違和感を感じる。

さて、新年明けまして、1月アニメも始まっております。関東圏はどうか知りませんが、僕の住む関西圏では今期アニメ1号が『ヤマノススメ』&『まんがーる!』でした。共にアーススターです。

このうち『ヤマノススメ』に対して批判を行っているブログ記事があります。

どうも、このアーススターのやり口が、得をするのが出版社だけ(むしろ原作者だけ?)であることに対して、半ばアレルギー反応的に不快感を感じているように読めます。

上記エントリに関して、僕の率直な反応は「あ、その拒絶反応は『まんがーる!』じゃなくて『ヤマノススメ』に向くんだ。意外だなあ」っていうところですが*1、内容は極めて重要で、これからのアニメ界にとっては何をアニメ化するかは大切だよなってことを(今更ではありますが)再認識させられます。

が、実はこのエントリ自体が本題ではありません。それに対する以下のエントリが、本エントリのモチベーションです。

違うだろ!『ヤマノススメ』なんていう半端に受けそうなヌルいアニメじゃなく、『てーきゅう』っていう、ほとんど監督一人で作っていろいろやり過ぎで完全に誰得アニメを批判するべきだろ!

基本的にはそういう風に読めます。ですが、非常に難しいことに、くだんのエントリを書いた str017 さんは、自らの『てーきゅう』愛を高らかに叫んだ後、以下のように説明しています。

えっ? 「さっきまで散々批判するべきはヤマノススメではなくてーきゅうみたいなこと言ってたじゃん」って? 何を言ってるんですか、これは愛です、愛故のすべき論です。つまりは「私は心を奪われた!この気持ちまさしく愛だ!!」ってことですよ!!

この歪んだ愛情の全てを理解することは困難で、かつ、そんなに理解したくもないのでこれ以上は言及しませんが……

そうなんです!これは愛の話なのかもしれないのです!

だからね、要するに僕らはアニメを愛していて、だからアーススターの冷徹なビジネス指向が許せない*2

愛すべきメディアファクトリーの話をします。メディアファクトリーは、需要がたった1万人規模であっても、そのコアなファンを満足させるコンテンツを提供すれば、そのターゲット1万人が市場として充分に機能することを主張し、それを体現してきた出版社です。

メディアファクトリーが提供するコンテンツを面白いと思う消費者たちと、一緒に市場を拓いたといってもいいかもしれない。その中心にあるのは、メディアファクトリーメディアファクトリーのマンガを提供し続け、消費者がそれを求め続けるという信頼関係です。

コミュニティへの帰属意識。あるいはコンテンツへの執着。言い換えると愛みたいなものです。

対して、

原作PRを目的とした低コストのアニメ化。流行の声優を起用したグラビア&ネットラジオ。

アーススターと消費者の間に存在するのは金銭的な関係であり、つまり「ほら、これが欲しいんだろ?ここにあるんだぜ。くれてやるよ」的な何かを、排他的な僕たちは感じ取ってしまっている。だからアレルギー反応的に、嫌だと言う。そういうところなんじゃないだろうかと思います。

さて、ここでようやく僕個人の感想を差し挟みますが、実は『ヤマノススメ』は非常に面白いと感じています。

これは1話視聴直後の僕の感想です。『たまゆら』と言えば、制作もキャストもファンもそれを愛していて、その結果がネットラジオとか聖地巡礼とかにつながっている、言うなれば愛の象徴みたいなアニメです。

僕は、アーススターだとかそういう余計な情報抜きに、純粋に3分間のアニメーションを消費し、その直後に愛の象徴たる『たまゆら』と同じものを感じ取りました。

たった3分。ひょっとしたら表面的な何かに騙されているだけかもしれません。でも、凝縮された愛のように感じられる何かを、どこかで感じたはずなんです。

『てーきゅう』に対する愛を叫んだ str017 さんも同じであるはず。板垣伸監督と言えば、『バスカッシュ!』の監督騒動のときもそうでしたが、WEBアニメスタイルにてアニメに対する溢れんばかりの愛を書き綴っているアニメーターさんで、ファンから篤く信頼されています。

僕は山本裕介監督がTVアニメ『ヤマノススメ』に対して手を抜いているようには見えなかったし、むしろ充分な工夫で視聴者を楽しませようとしてくれているように感じました。

いや、分かってるんです。だからこそ、『ヤマノススメ』批判を書いた TM2501 さんが、アーススターがアニメーターをいいように使っている(ようである)のに対して憤怒していることは。

だからこそ、その『ヤマノススメ』批判ないしはアーススター批判は、このアニメ放送開始のタイミングにするべきではなかった。TM2501 さんは原作者について多くの情報を持っているし、TVアニメを見て怒り狂ってキーボードを叩いたというわけではないと思う。以前からアーススターに対して思うところがあって、アニメ放送開始に合わせて多少の準備があった、と失礼ながら想像しています*3

それに実は『ヤマノススメ』批判エントリはTVアニメ『ヤマノススメ』の内容について言及することを避けている。それならば、放送開始前に、山本監督が愛のような何かを見せる前に、この批判エントリを書くべきだったと考えています。

そういう事情で、TM2501 さんが触れなかったTVアニメ『ヤマノススメ』そのものと、それにまつわるオタクたちのコンテンツ愛について書かなければならないと感じ、それを書きました。今日の仕事が全く進んでいません。どうしてくれんだコノヤロー。

思うところ、それぞれ、いろいろあるかと思います。今の時代はそういうのを共有するツールはたくさんあります。紹介させて頂いた2件のエントリ、それから本エントリを読んでどう感じたかを、ぜひどこかで発信してください。僕たちの欲しがっているものに敏感なアーススターの人ならば、そういう発言も目にとまるかもしれません。

*1:僕個人の話をするなら、『まんがーる!』のほうがよほどアニメを舐めている/冒涜しているように感じられました。

*2:そのビジネス指向がマーケットのポテンシャルを吸い尽くす可能性とかは、ひとまず置いておく。だって僕らはそこまで頭でアニメを見ているわけじゃないから。

*3:ちなみに僕は、京アニに対する愛ゆえに『たまこまーけっと』に対してツンデレな態度を取る準備をしているし、その決まり文句だって考えていたりします。まだ見てないのに。