2013年このマンガがすごかった10選
2013年中に書きたかったけど書けなかったから過去形。年末から厳選作業と称して読み返しているうちに年が明け元旦も過ぎてしまったでござる(さらに書いてるうちに2日も終わったでござる)。
10位 エバーグリーン
- 作者:竹宮 ゆゆこ
- 発売日: 2013/03/27
- メディア: コミック
9位 ヴィンランド・サガ
- 作者:幸村 誠
- 発売日: 2013/07/23
- メディア: コミック
8位 千と万
- 作者:関谷 あさみ
- 発売日: 2013/06/12
- メディア: コミック
7位 私の世界を構成する塵のような何か。
私の世界を構成する塵のような何か。 3巻 (IDコミックス 百合姫コミックス)
- 作者:天野 しゅにんた
- 発売日: 2013/12/18
- メディア: コミック
6位 実は私は
- 作者:増田 英二
- 発売日: 2013/12/06
- メディア: コミック
5位 甘々と稲妻
- 作者:雨隠 ギド
- 発売日: 2013/09/06
- メディア: コミック
4位 僕だけがいない街
- 作者:三部 けい
- 発売日: 2013/12/02
- メディア: コミック
3位 惡の華
- 作者:押見 修造
- 発売日: 2013/08/09
- メディア: コミック
2位 空が灰色だから
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僕の2013年の最大の収穫はこの名作に出会えたこと。月イチのペースで全巻まるまる読み返していました。ナンセンスだったりコメディだったりシリアスだったりするオムニバスなんだけど、そういう既存のボキャブラリーでは本作のことを少しも伝えられる気がしません。いちばんしっくり来る表現は「無性にざわつく」です。とにかく読んでみるべし。
1位 彼女とカメラと彼女の季節
- 作者:月子
- 発売日: 2013/07/23
- メディア: コミック
本作は、女の子2人と男の子1人の3人のメインキャラクターの憧れ、嫉妬、自己嫌悪、愛情といった思春期的な感情をカメラという装置で鮮やかに切り出した傑作です。写真を撮るという行為には「被写体を捉えたい(捕らえたい)」とか「被写体に近付きたい」とか、あるいは「被写体との距離とりたい」とか、いろんな意志が存在します。「こう撮りたい」とか「こう撮られたい」といった感情が、強烈に他者を意識してしまうという思春期の感情と見事にシンクロして描かれます。
女2+男1の百合とか、ボーイッシュとか、そういう構成要素だけでも完璧に僕のストライクなのに、さらにこういったカメラっていうモチーフが利いて奇跡的な傑作となっています(個人的に)。
あと、タイトルにも入っているように季節に対するこだわりが強いようで、3巻の秋から冬への主人公あかりの変化(服装と一緒にどんどん暖かい感じになる)とユキの変わらなさ(冷たい表情と雪)の対比とか、そういう表現もとても美しいです。
***
『のんのんびより』と『IS2』
この前アニメファンの方々とお話する機会があったんですが、皆口々に「ISはちょっとね…」「1期の頃は良かったんだけどなぁ…」「さすがにあれはユーザーを馬鹿にしている」とISには苦言を呈していて、「あっ、家畜でも餌の味がわかるのか!」と衝撃を受けましたね。
— ふたなっち (@daddyofYuiOgura) 2013, 12月 24
こんばんは、ぶっちゃけ餌の味がイマイチ分からなかった豚です。
確かに、2期のISバトルは迫力に欠ける(アクションシーンの数でも質でも劣る)とは感じたし、1期で効果的だった新キャラ投入というテコ入れも(シャル&ラウラの登場タイミングは完璧だった)今回は簪オンリー。総じてスパイス不足で、かつ、鮮度のない餌だったのは確かかもしれないけど、「馬鹿にしている」と言われるほどひどい差があるようには感じられませんでした。
そんなことよりもISの本領である(と僕は思っている)、おいしいシチュエーションが連鎖して女性キャラクターがひっきりなしに画面に現れては消えるという畳かけは2期でも健在で、その点において僕は「餌の味」の違いが分からないのです。
わりと本気で2期は1期に引けを取らないと考えてます(餌として)。*1
*
一方で、すこぶる評判が良かったのが『のんのんびより』。
のんのんアニメ成功の一員は潤沢な「間」と「風景」の増幅にあるが、どちらも萌え四コマでは発生しにくいもの。「間」でパッと思いつく萌え四コマと言えばあずまんが大王だが、よつばとを見りゃ分かるようにあずまきひよこに四コマは狭すぎた。いがらしみきお天才という話でもある。
— 杉田悠 (@sugita_u) 2013, 12月 29
潤沢な「間」と「風景」という点に関して、まさに『のんのん』の本質はそこにあると思います。
ただ、もうひとつレイヤーを引き上げて「日常系」とかいう言葉を引っ張り出してみると、その本質は「視聴者を作品世界の日常に招待すること」にあります。その役割を担って機能したのが「間」であり「風景」であった(すなわち、カメラを作品世界の内部に同居させるのに効果的であるということ)のだけど、これは『けいおん!』に関して既に議論されている*2ことなので、ここでは省きます。
僕らはあののんびりとした田舎に「招待」されたのであり、そこでは多くの視聴者の生活の中にない田舎の生活*3という「驚き」と「癒し」が提供されていたと考えています。
日常系というのは「コミュニケーション系」のことであり、それは作中キャラクター間の会話に留まらず、アニメ作品と視聴者の「対話」も含んでいます。すなわち、僕ら視聴者が知らない世界、知らない考え方、見られない景色、感じられない空気を提供できることが、作品と視聴者のコミュニケーションの必須条件であり、『のんのん』の場合、「間」および「風景」と、それと響き合うキャラクターが、我々視聴者にとっての「新鮮さ」(そこから派生する「癒し」)を演出していた、というのが僕の見立てです。
*
ISの話に戻ります。
なぜIS2が「まずい餌」に成り下がってしまったのか考えると、やはり「新鮮さ」の欠落だとは思うんですが、それは視聴者がIS的な展開・構成に飽きたという意味でなく、おそらく気付いてしまったんだと考えています。
何に気付いたかというと、ISの方法論はネット上でコンテンツを消費するのに似ているということです。
TwitterでもPixivでもブログでもなんでもいいんですけど、可愛い女の子の絵なんてネット上にたくさん存在していて、僕らはそれを脈絡無く閲覧することができる。IS1期の「シチュエーションの連鎖」は、きっと構造としてコンテンツのブラウジングに似ていて、それで視聴者の脳ミソはいい具合に溶かされちゃっていたんだと。*4
ネット上のコンテンツ消費に似た形で細分化されたシチュエーションが連続的に提供されるというのはテレビアニメとしては革新的で、だから1期は良かった/けれど、時間をおいてみるとそれがネット上のコンテンツ消費と同じであることに(潜在的に)気付いてしまって、だから(バトルアクションや新キャラで劣る)2期はダメだ。
というような理屈なんじゃないかと考えています。
『アルペジオ』の原作厨
アニメ『蒼き鋼のアルペジオ』は確かに素晴らしかった。
霧のメンタルモデルにフォーカスして、人間とは「愛」と「身体」であるというシンプルな回答を導いた名アニメだと思う。
最後、身体的な接触によってイオナとコンゴウが「愛」を共有した場面なんて、頭スコーンて叩かれたみたいにすっきりしたし、それが唯一の手段であることをイオナが確信していたのは、その前の400と402に沈められた経験から来てるし、握手だって群像とタカオがしてたのを見ての判断だろうし、そういう意味ですごく話として上手くできている。
あとは、やっぱりタカオとヒュウガ。愛を叫んでの献身は超かっこいいし美しい。
それはそうなんだけど!
原作大好き人間としてはやっぱり物足りない気持ちが残る。人間側の背景があまりに薄い。霧は生まれたばかりの存在で、真っさらなのは分かるし、彼女らが「概念」を手に入れる様子を描きたかったというのも分かる。
でも、人間ひとりひとりと、人間社会には歴史があって、それまでの積み重ねがあって、そういう意味では人間は「愛」と「身体」なんていう「基本ユニット」だけで生きていける生き物じゃない。
原作からはそういう所を強く感じて、そういう意味で人間と霧のメンタルモデルとの比較がより鮮やかで面白い。
アニメでは人間なんて群像と蒔絵以外いらなかったんじゃないかとすら思う。物語の中で全く機能しなかったもの。401クルーも海軍も陸軍も。
もちろん、それをアニメでやるのは重たい。だから「霧のメンタルモデルにフォーカスして」いるのだし、だからこそこれだけ描けた。それは分かってるつもり。
な・ん・だ・け・ど!
やっぱり惜しいなあと思ってしまう。
ただ、実は原作大好きでもここまで惜しいと思ったことはなくて、やっぱりアニメの出来がよかったからそれだけに惜しいということなのかな、とも思う。
というちょっと長めのつぶやき。
こんな夜は煩悩寺でも読むといいよ
煽り記事です。さーせん。
1年に1度の特別な夜には特別なマンガを読みましょう。恋愛マイスター秋枝が贈る珠玉のイチャラブストーリー、それが『煩悩寺』。
- 作者:秋★枝
- 発売日: 2010/08/23
- メディア: コミック
今年の夏にKindle版も出版されているのでそちらもご紹介。そろそろ本屋も閉まっちゃう時間ですしね。
とにかく読者をニヤニヤさせる能力がピカイチ。普段は悶絶して床をゴロゴロ転がりながら読むことのできるマンガなのですが、それをこんな特別な夜に読むとどんな気分になるのか、個人的にすごく気になるので今からやってきます。一人でやるのも寂しいのでどなたか一緒に爆発しましょう。
おもしろ半分でこんな記事を投稿しているのですが、こんな夜じゃなくても全然オススメなので、年末年始の妙にぽっかり空いてしまう時間用に購入されるのも良いかと思います。
秋枝でいうと、『恋愛視覚化現象』と『伊藤さん』もオススメ。女の子がちょーかわいい。
- 作者:秋★枝
- 発売日: 2012/09/19
- メディア: コミック
大絶賛・まどマギ新編「叛逆の物語」(というか「ほむら」)
ちょっと遅いけど見てきた。そしたらすっごい良かったので勢いがあるうちに勢いでブログ書く。明日も見に行くので、冷静なエントリはまた後日ポストされるかもね。久しぶりのエントリがこんな大変なことになってしまったのは、少し申し訳ないと思っている。
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TVシリーズを踏襲した上で真っ向から話を作るなら、確かにこうなる。だって、TVシリーズの結末はまどかの慈愛とほむらの情愛の決定的なズレを露呈させただけだった。ほむら視点で言えば「希望が叶わなかった」あるいは「奇跡が起きなかった」結末であり、どう考えてもバッドエンド。にもかかわらず赤いリボンを頭に巻いたほむらは、まどかが概念と化した世界を戦い抜こうとかいう決意をするという、ちゃんちゃら可笑しい結末だった。
ほむらの願いは「まどかとの出会いをやり直すこと」で、より直接的には「守られるのでなく、私が守る」関係になること。対等の立場で魔女に立ち向かいたいとか、そんな生易しいものじゃない。「まどかはなにもしない。私が全部やる」が彼女の願い。
そういう意味において、ほむらの願いは一切叶えられていなかった。円環の理として概念化したまどかはもはや守るとか守らないとかの範疇から外れてしまった*1。ほむらにとっては恒久的な絶望が決定されてしまった。
TVシリーズでは、まどかのシンボルである赤いリボンで頭を、すなわち「慈愛の心」で「理性的に」欲求をコントロールすることで、概念化したまどかを受け入れた。このときに誕生したのが白ほむら。
でもね、希望と絶望は差し引きゼロだって、赤い目をしたネコみたいなのが言ってた。
白ほむらが戦うほど、「守られるのでなく、私が守る」という欲求を持ったほむらが大きく育つ。エグい言い方をすると、何が何でも「私のまどか」を獲得しようとするほむら(=黒ほむら)が、ソウルジェムをどろどろのびちゃびちゃにする。
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新編の序盤は魔女化した白ほむらの内側の世界。ひとことで言うと普遍的な友情の世界。「みんな」で仲良くナイトメアとかいうものをいじめ倒す*2。
白ほむらの結界の中では、魔法少女はダンスして変身するし、歌って敵を殲滅する。たぶん楽しさの演出だけじゃない。白ほむらが「恒久的な絶望」を受け入れたことに起因する必然だと思う。
歌と踊りはどんな社会でも発祥した人間の本質に依る普遍的な文化の代表例だ。
ほむらが刹那的なまどかとの関係性を望んでいたのに対して、まどかの出した答えは普遍的な隣人愛(=慈愛)。だから、それを受け入れるために生まれた白ほむら人格は魔法少女と普遍性を無意識的に結びつけた。魔法少女とかいう刹那的な存在を人間の文化と結びつけた。
つまり、白ほむらは心の底から概念化したまどかを尊重していて、魔女化してもなお、魔法少女のことを守ろうとした。
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でも、そんな生ぬるい考えがほむらの本心であるわけがない。
ほむらが、まどかと直接コンタクトできる唯一の機会である「反転の瞬間」を無為にするはずがない。
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本来のほむらの望みは「私のまどか」の獲得。それは、愛は愛でも、まどかの慈愛でなく、ほむらの情愛。みんなの和(円)でなく、他のものがどうなっても構わないというエゴな炎。
ほむらの本質は、円環の理がもたらした慈愛の世界をぶち壊してでも自らの愛を実行する精神にある。黒ほむらにはまどかを尊重するなんて気持ちはない。だって「私のまどか」が欲しいんだから。
まどかが過去と未来の全ての魔法少女の普遍的な希望になり、その結果、ほむらがそれと同等の恒久的な絶望へと落ち、さらに、世界の新しい理に叛逆する。
なんという大間違いの連続! 刹那性の崩壊! さらに普遍性の崩壊!
そういう意味では、やっぱりまどマギの本質は百合なんだよなって痛感する。
*
だから黒ほむらが覚醒してからはワクワクしてたまらなかった。別に黒ほむらのエゴが実って欲しいとか、そういうのじゃない。TVシリーズでは一切希望が叶えられなくて不憫ではあった*3けど、まあ、もともと性格があんななのが悪いというのが常識的なコメントかと思う。
でも、誰であれ、そいつがそいつらしくないというのは、見ていて釈然としない。
だからラスト、黒ほむらの怒濤の叛逆はものすごいカタルシスで、とにかくワクワクした。「世界とかどうなってもいいからブチかませ!」ってなった。ものすごくほむらがほむららしくしていた。
*
ほむららしいって何だ?
最後、まるで守る側と守られる側が入れ替わったようなまどかの転入イベント。ほむらはTVの1話と同じように、世界を愛せるかとまどかに尋ねる。まどかは答える。まどからしい回答。すなわち、世界中に普く向けられる慈愛。
ほむらはそんなまどかだから、まどかを「私のまどか」にしたかった。「まどかだけを守る」自分が欲しかった。ほむらはこのギャップをちゃんと認識していて、だから、自分とまどかの関係が恒久的に続くなんてことはあり得ないと知っている。敵になるだろうと口に出して明言する。
「叛逆の物語」は、ほむらの刹那性が概念化したまどかの普遍性を破壊し、勝利する物語だ。
でも、ほむらの希望が叶えられることはない。ほむらだけを見るまどかなんてものは、もはやまどかではないから。これがほむらの根本的な絶望。
慈愛の神様と根本的に絶望を抱えた悪魔の刹那的な友人関係は、またはじめからやり直し。
少女達はいつまでたっても永遠に少女であり続けている。しかもそれを仕掛けているのが、普遍的な関係性を否定しているほむら自身である。ほむらの本質は「矛盾」なんだよなって、つくづく思う。面白い。
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とりとめのない文はこれでおわり。ここから、他に気になったところをとりとめもなく列挙。
- 「叛逆の物語」っていう副題が素晴らしい。まどかの普遍的な慈愛を裏切って、自分勝手にまどかを求めるという行為はまさしく「叛逆」だ。
- ほむらの「内側の世界」たる魔女の結界が、表のほむらの外向きの理性を反映していたのが面白い。黒ほむらの業の深さを象徴している。
- 「食べる」行為で欲望を表すというのはTVシリーズからの通りだった。さらには、ほむらがものを食べるシーンが存在しないことで、ほむらの表出されない欲望を表現するのも、一貫されていた。ただ、最後の最後、スタッフロールのときに左右にまどかとほむらが並んで出てきてたとき、まどか側に口のシンボルがあって、逆じゃね? ってなった。どういう意図だろうか。ちなみにほむら側は目だった。
- そう言えば、まどかの概念化を否定するために時間を戻すというのはできなかったんだろうか。